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銅鐸つづき

庭は椿が花盛りだ。よく見ると微妙に色合いも形も違う。

戦いに負けた銅鐸文化の人たちは、命令されて、自分たちで山の斜面を掘り、大事な銅鐸を横たえて埋めたのではないか。舌は、二度と銅鐸が鳴らされないように、別にして、捨てられた。
たぶん、抵抗をせず、だまって皆で山を掘ったに違いない。そんな光景が目に浮かぶ。
大化の改新頃の郷の家族構成が載っていた。公奴婢、私奴婢が、非常に少ない。268人の郷で一人も奴婢がいないところもあった。
これはどういうことなのだろう。
戦って負ければ、勝った側の奴隷になる。戦利品だから。
こんなに少ないのは、もしかしたら、戦わなかったのではないか。
戦わずにムラを明け渡せば、制服者のムラの一員となり、奴隷にはならなかったのかもしれない。そうして、婚姻などを通じて、混じっていったのかもしれない。
武器を作らなかった人たちは、非戦の人たちなのではないか。
ただし非戦ということは、諦めて服従しているのではないような気がする。
権力に対して、こちらも権力で集団をまとめ、戦うことは、同じ価値観の集団になってしまう。それは、自分たちの大事にしているものを、捨ててしまうことなのではないか。
暴力に対して、非戦で応じたとすれば、それは、銅鐸文化の人たちの、根本的な思想を捨てなかったということだ。
青銅器は、出来た時は金色に輝いているのだという。銅鐸はどんな音がしたのだろうか。

2016-04-05 | Posted in つれづれ, ブログComments Closed 

 

銅鐸

庭の水仙を玄関の出窓に生けた。ポーランドのティーポットと一緒。

「日本史」のことが気になって、高校時代の参考書をはじめから読んでみた。縄文時代から弥生時代になる頃、弥生式土器と前後して、北九州にはじめて青銅器および鉄器が現れる。初期のものは、明らかに中国あるいは朝鮮半島製のものだったが、そのうち、日本でも制作されるようになった。
青銅器の代表的なものは、銅剣、銅鉾、銅戈、銅鐸、銅鏡、その他、鋤・鏃などがあったという。武器と祭事、農耕用器具である。
この中で、銅鐸は、日本で作られた形態のものだという。
銅鐸は、大きな鐘のようなもので、中に舌というものがぶら下がり、これを振って音を出していたらしい。銅鐸の使用目的は、何かの神事、祭りに使われたのかもしれない等、諸説あるらしい。
武器として入ってきた銅剣、銅鉾は、はじめは細身で鋭利で実用的な細形だったのが、国内で生産するようになると、薄手で、ひらたく大形になり、非実用的な儀式化したものになっていったのだという。
武器として入ってきたものが、国内生産するようになると、武器ではなく、儀式の道具になってしまう。武器を作るのに優れた材料なのに、その材料で儀式用の大きな銅鐸を作ってしまう。
これはどういうことなのだろう。
優れた武器を作って、富を持っている他の人々に戦いをしかけ、ぶんどることはできたはずだ。なのに、そうではないものを作ってしまう。
ダイナマイトを発明したノーベルは、それが多くの人を殺してしまう殺戮道具になってしまったことにショックを受けた。江戸時代では、戦がなくなり、火薬が花火になった。
技術の平和利用とはなんだろう。
その昔、武器を作ってより多くの富と権力を手に入れることができたのに、しなかった人々の暮らし、文化があったのだ。
3世紀後半頃、銅鐸はぷっつりと無くなってしまう。発見される時は、集落から離れた山の斜面などに横向きにされて埋められている状態なのだそうだ。音を出すために必要な舌は、一緒には埋められていないそうだ。
日本書紀、古事記には銅鐸に関する記述は全く無い
結果的には、新しい材料と技術を使って、武器ではなく祭事用の青銅器を作った人々は征服されてしまったのだろう。
優れた材料、技術を手に入れた時、何を作るかというのが、どういう文化なのかということになるのではないか。
原子力の平和利用、武器輸出解禁、これらの言葉を聞く時に、埋められた銅鐸を思い出す。

2016-04-04 | Posted in つれづれ, ブログComments Closed 

 

「新」と名のつく

建物と建物の隙間に、おおきなたんぽぽ。ここも春だあ。

「新」と名のつく歴史的事件は、結構ある。
日本史で最初の方に出てくるものといえば「大化の改新」。
「新」と言うと、良いことのような気がする。しかし、授業で聞く内容は、古くて悪いものを改め、良いことが始まるような政治が始まったという訳でもなく、権力をめぐる殺し合いにしか思えない。
どこが「改新」なのか?それについては、授業は何も説明しない。「大化の改新」という事件がありましたというだけだ。だから、授業はそれほど面白くはない。
コロンブスによる「新大陸発見」。これは、中学校位で習ったのだろうか。そして、インディアンの人達と出会ったコロンブスの挿絵があった。
「そこにすでに人が住んでいるのに、なんで新大陸発見なのか?」不思議に思った私は、先生に質問したような記憶がある。先生の答えは覚えていない。
どうも歴史というのは、うさんくさいものだ。というような印象があった。
近代史は授業ではもう駆け足になるが、また「新」が出てくる。
「明治維新」。これだって、どうみたって、徳川幕府に対する薩長土肥連合のクーデターのように見えるのだが。明治の初め頃は、暗殺が横行している。これがご一新後の良い世の中なのか。
受験科目だったため、日本史の参考書は丸暗記したが、どうも歴史という科目が当時は好きではなかった。いつもあちこちに、これはなんなんだろう?と引っかかったからかもしれない。
もしかしたら、「新」とつく出来事は、「破壊」という言葉に掛けたオブラートなのではないか?ある日ふとそんなことを思った。
明治維新と、戦後アメリカから入ってきた新しい文化、それでどれだけのものが失われてしまったのだろう。形あるものも、形のないものも。

2016-04-03 | Posted in つれづれ, ブログNo Comments » 

 

シジュウカラの言葉


シジュウカラは言葉を持つことが発見されたという。
「危ない!」という鳴き声も、蛇なのか、カラスなのかを使い分けているという。
「危ない」「集まれ」と鳴くと、皆集まって敵を攻撃するのだそうだ。
ところが、「危ない」「集まれ」の鳴き声を、逆にすると、全然反応しないのだという。これは、シジュウカラの言葉には、文法があるという解説だった。
でも、もしかしたら違うかも、と思った。「危ない」「集まれ」という一つの音の流れで、一つの音楽、曲なのではないだろうか?もし、これを逆にすれば、別の曲になってしまう。
だから、意味が通じないのではないのだろうか。
鳥はきっと唄っている。
言葉って、唄から始まったのかもしれない。

2016-03-24 | Posted in ブログ, 自然Comments Closed 

 

4分のタイマー


先日テレビを見ていたら、ある飲食店が出ていて、そこの麺の茹で加減の話になった。
3分茹でるとちょうどいいということだが、そこの店主は、タイマーを4分にするのだそうだ。そうして、そろそろかなと行くと3分ちょっと前なのだそうだ。
レポーターは、「タイマー3分にすればいいじゃないですか」と笑って突っ込んでいたが、どうだろう。
ちょうどいい加減は勘でわかる。麺をお鍋に入れてから、どうかな、まだかなとなんとなく気にしながら別の作業をしている。そうすると、そろそろかも、と勘でわかり、見に行くとちょっと前だ。
タイマーが4分なのは、何か別のことに気がいって、ど忘れしてしまった時の、アラームなのだ。いつも気にしていれば、何かがやりすぎているかどうかが、わかるようになる。
これをもし3分にしてしまえば、いつも気にするということを放棄し、全部が人任せになってしまう。
便利と引き換えに、何かを手放してしまうことって、あるような気がする。
だからタイマーはどうしても4分なのだ。

2016-03-22 | Posted in つれづれ, ブログNo Comments » 

 

不機嫌な居酒屋


今朝のラジオを何気なく聞いていたら、「今の人は、自分が一番幸せじゃなければいけないんです」という一言が耳に入ってきた。
「ええ?」一瞬びっくりした。そうなのか。
そのような前提で、色々なビジネスを組み立てるのだとか。
なるほど。それで、ここのところずっと、なんとなく胸にひっかかっていた光景が理解できた。
一ヶ月位前、とある居酒屋に入った。ここは、昔好きでよく通っていたお店だ。休日で早めの時間ということもあって、カップルや女性同士が多い。カウンターにいたので、見るともなくまわりの人の様子が目に入る。
そのうち、なんだか違和感が湧いてきた。女性たちが、あまり楽しそうではないのである。せっかくの休日、パートナーや友人といるのに、あまりにこにこしていない。
「これはなんだろう」
男性の方がご機嫌をとっているようなカップルや、女性が男性に説教をしているようなカップルもあり、なんとも不思議だ。
別に女性が下手に出る必要もないが、お互いの話しを楽しく聞きながら飲む、というのが、お酒を飲む時のパターンだと思っていたので、なんでだろうなあ、と思っていたのである。
その「なんでだろうなあ」とくすぶっていた疑問が、やっととけた。
自分が一番幸せになりたいのだから、人が幸せな話は、きっと聞いていて楽しくないのである。「そんな、まさか」と思うが、そうなんだろう。
よく、人の不幸は蜜の味という。もともと人間はそういう癖はある。でもなあ、だからといって、目の前の恋人や友人の幸せも、楽しくないのかなあと、ちょっと不思議だ。
「一番」幸せでなければいけない、と思うところには、比較がある。「一番」であるためには、自分より下のもの、少ないものが必要だ。自分に比べて、多いものがいては、幸せにならないのである。「一番」でなければいけないのだから、二番以下は不幸だ。
誰かが、「ただいま~」と幸せそうに帰ってきたら、自分の幸せ度より、そちらの方が多い様に感じてしまうかもしれない。そうなったら不幸一直線である。
どうしたら自分が一番幸せになれるのか。比較する幸せ度は、相対的なので、相手の幸せ度を減らしてしまえば自分が一番になれる。かくして、不機嫌な顔をすれば、相手の幸せ度が下がり、自分が一番になれる。小学校の算数並に、簡単なことだ。
でも、その後は、心から幸せだろうか?これは、小学生の方がよくわかっているかもしれない。

2016-03-19 | Posted in つれづれ, ブログNo Comments » 

 

朝の座禅

なんとなく思いついて、朝、坐禅をしてみた。小学校の夏休みに、子供座禅教室に行ったことがあったので、その時に習ったやり方を思い出してみた。
とりあえず100回深呼吸をする間、やってみようと思ったのだが、意外に長く感じた。
最初は身体がふらふらしていたのだが、その内身体が動かなくなった。そうしたら身体が、なんだか箱のように感じられ、中に柔らかいものが入った入れ物のような気がしてきた。
「ああ、わたしは木になった」
下半身はどっしりと床について、箱の中を息だけが出入いりしている。
植物は、こんな感じで、世界とつながっているんだなあ、そんな気がした。
わたしは止まっている。だから動くものがわかる。
もし、私が動いていれば、同じ速さで動いているものは止まってみえる。止まっているものは、後ろに下がって見えることになる。
木はこんな風に世の中を見ているんだなあと思った。
案外、動き回っている人間よりよく見えているのかもしれない。

2016-03-18 | Posted in つれづれ, ブログNo Comments » 

 

春祭り

庭の椿を生けた。春は着実に来ている。

私の住んでいる集落にはお宮があり、春と夏にお祭りがある。
春祭りは、今年の豊作を願うものだ。村の役員が神主さんとお参りをする。
子どもの頃は、縁日が出たり、盆踊りがあったりと賑やかな夏のお祭りの方が好きだった。でも、さあ春だ、これから農作業だとワクワクする季節に、今年も豊作をお願いしますと、静かにお祈りするのも、いいかなと思う。
ふと、考えた。なんという言葉でお祈りするのだろうか。たぶん、「今年もお天気に恵まれて、豊作になりますように」だろう。「豊作」のイメージは、今までで一番よく採れた年位の収穫だと思う。一反からとれるお米は、毎年右肩上がりで増えるということは無い。
会社では、毎年、前年度何%アップなどという目標が掲げられる。それが当たり前だ。でも、お米は、「我が家の今期の計画は、前年度何%アップです。神様よろしくお願いします」と、お祈りしている言葉は、なんだかそぐわない。
「いつものように、自然の恵をお願いします。」という言葉の方が、しっくりくる気がする。
私の友人の農家さんは、「太陽と雨と土が作っているんです。私はそのお手伝いだけです」と言っていた。
太陽は朝出て、夜沈む。雨は、いつものように降る。土は、汚されたり、壊されたりしない。それが、今日も、明日も、続くと思えば、必要以上に貯め込む必要もないし、右肩上がりでなくても良い。
今、あるものが、いつまでも同じように回ってくる。こんな豊かなことがあるだろうか。
春祭りは、「いつものように回ってきますように」と祈っているのだと思う。

2016-03-15 | Posted in ブログ, 自然No Comments » 

 

生まれたての雲


今日は、雨模様。春の雨は、やわらかく、田んぼや山は、うすぼんやりと湿り気に包まれている。移動中の新幹線から山の方を見ると、山肌から何本も白い靄が立ち上っている。
「あ、雲が生まれている」
次から次へと、行く手の山々にも、靄が湧いている。
「あの雲の水蒸気は、もしかしたら、昔、私の体の中にいたことのある水かもしれない」
ふと、そんな気がした。
「あの雲は、わたしだ」
なんの不思議もなく確信した。そして、次から次へと生まれてくる雲を見ていた。
あの雲は、やがて、雨になり、いつかまた私に帰ってくることが、あるのかもしれない。
その日まで、またね。

2016-03-14 | Posted in ブログ, 自然No Comments » 

 

はみ出した心と和室

「あ、今日から春が来た!」と、思う瞬間がある。
ある日の小学校の帰り道、降り注ぐ日差しに、積もった雪が溶け始め、あちこちで焦げ茶色の土が顔を出していた。そして、そこから立ち上る暖かい湿り気を帯びた土の匂いを嗅いだ時、「あ、今日から春が来た!」と思った。
またある日は、つららの先からぽたぽた落ちる水滴の光が、その日から、暖かな光に変わっていたことに気づいた。その時も、「今日から春だ!」と思った。
先日も、二階の窓からの景色が、「おや、春が来ているぞ」という感じになっていた。こうなると、どうにも浮き浮きして、室内でじっとしていられなくなる。しかし、その日は、春の空気を楽しみながらお散歩するほどの時間は、残念ながら無かった。しかし、私の気持ちは、春を感じたくて、もう家の中からはみ出してしまっている。
そういう時は、二階の洋間には、いられなくなる。そして、私は一階の座敷へ降りる。そこは、南向きに縁側があり、外の景色は丸見えだ。畳に座れば目線が下になり、外とつながっているかのような気分になれる。心が自然の中にはみ出してしまっているような時、和室は実に心地が良い。洋室はどうしても外から囲うもの、和室は外とつながるもの、特に縁側はあいまいな空間だ。縁側と和室は、外にはみ出した心にちょうどいい。
私は日本家屋好きだ。
それは、空想がちで、いつも心がはみ出していた子だったからしれない。

2016-03-10 | Posted in つれづれ, ブログNo Comments » 

 

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