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雨のカエル

紫陽花は色んな種類があるが、オーソドックスな花が好きだ。

梅雨空の毎日だ。空気がなんとなく湿って重くなり、風が止むと、「そろそろ降ってくるかな?」という感じになる。そういう時は、庭のあちこちで、急にカエルが鳴き始め、「カエルは雨がわかっているんだなあ」と、いつも思ったものだ。
ところが最近、庭でカエルが鳴かない。あんなにたくさんいたのに、気がつけばいなくなったような気がする。なんでだろう。
先日、カエルは毎年同じ田んぼに卵を産むのだと聞いた。ウチの近所では、前の年までは田んぼだったところが、大豆畑になっているところが毎年増えている。カエルが減ったのは、そのせいなのだろうか。
春になって、冬眠から目が覚めて、「どっこらしょ」と現れたカエルの目の前に広がるのは、田んぼではなく、大豆畑だったら。そのカエルは、他のカエルの田んぼには行かず、産卵せずに終わるという。もし他の田んぼに産んだら、カエルが密集してしまい、皆が生存していけなくなることを、知っているのだと思う。
あたりまえのようにたくさんいて、うるさいくらいに鳴いていたカエルの声が聞こえなくなった梅雨。これは、「沈黙の春」ならぬ、「沈黙の梅雨」なのだろうか。

2016-07-04 | Posted in ブログ, 自然Comments Closed 

 

古代ギリシャの家

庭では紫陽花が花ざかりだ。梅雨空の下、色とりどり。

最近、古代ギリシャの家についての本を読んだ。。
古代ギリシャの都市国家では、住宅が公的な部分と私的な部分とに分かれていたという。公的な部分は公道から直接入ることができ、男たちが飲食をしながら議論をする政治的空間だった。その奥には私的な空間があり、女たちと奴隷の場所といわれていたそうだ。家という空間は、公的な場所と、私的な場所の両方があるものであった。それが、近代に入ると、家族のプライベートな部分を守るだけの空間になり、公的な空間はなくなっていく。その社会的な意味について、色々と語ってあった。家族のプライバシーと幸せが最大の関心事になり、政治的な関心は薄くなるのは、住宅のあり方が影響していることがあり、その住宅は、国家や、資本主義というものの意志が色濃く反映しているものという話であった。
古代ギリシャの住宅の話を読んだ時、似ている家を知っている気がした。私の母の実家だ。母の実家は、集落では大きい農家で、いつも大勢の人が出入りしていた。
家の前側は、客用と家族用に分かれた玄関、小さい和室、二部屋の広い座敷、縁側だった。ちょっとした打合せには入ってすぐの小さい和室を、正式な話や大勢集まっての話は座敷で行っていたようだ。
家族用の玄関から入る家の裏側は、台所、茶の間、寝間だった。
ギリシャの住宅のように、表側が公的空間、裏側が私的空間とはっきり分かれている。
家の表側は、庭ではあるが、集落の人々は、日常の行き来の道として使っており、ちょっとのぞいたり、立ち話をしたりしていたような気がする。つまり、庭も、公的空間だったのだ。
高校教師だった私の父は人を家に招くのが好きで、新任の先生が入ると必ず一緒に飲んで家に連れてきたし、教え子もよく遊びに来た。母が、実家の祖父に、「お客が多い」と愚痴をこぼしたら、祖父に、「いいか。人の来ない家はだめなんだぞ」と言われたらしい。
人が来る家、人が来ることができる空間のある家、その空間を無くすことで、私たちは何を無くしてしまったんだろう。

2016-07-03 | Posted in つれづれ, ブログComments Closed 

 

「たまちゃんず」プラス1 デイサービスで演奏


朝川会のボランティア演奏元祖の「たまちゃんず」に更に一名加わって、6月11日、五泉市のまおろしの里に演奏に行きました。
唄に三味線、お箏に、今回は締太鼓も加え、賑やかに。皆さんと楽しい時間を過ごさせていただきました。
今回初参加のOさん、次のボランティア演奏も参加です。
朝川会のボランティア演奏、ますます広がっています。

2016-06-28 | Posted in ブログ, 朝川会Comments Closed 

 

複素数は美しい

日照り続きだったが、先日、待望の雨。ほおずきの花が咲いている。

先日、何人かで話していたら、「数学嫌いだったでしょ?」と聞かれた。
三味線やっているし、文系出身だし、そう思われても無理もない。
ところが、私は数学は大好きだった。
父が高校の数学教師というせいもあるかもしれないが、子どもの頃、「数学パズル」というようなタイトルの本を買ってもらい、面白いなあと思って読んでいた。だから小さい時からの、数学好きである。
数学の授業で一番好きだったのは、公式の証明だ。なぜこの公式ができたのかという解説は、なぞとき物語のようで、とても面白かった。数式が美しく流れ、ひとつの答えが出る。答えが、すぱっとひとつでない国語よりも、面白いと思っていた。
ある日、複素数を学校で習った。今までの何よりも面白かった。二乗してマイナス1になるという数を想定してみると見えてくる世界は、本当にワクワクした。早速帰って父に報告した。
「今日、複素数を習ったよ。面白いねえ」すると、父は笑顔で答えた。「複素数か。あれは美しいだろう」
美しい。そうか、私がこれはすごい!と思ったことは、美しいということだったんだな。父はとても楽しそうに笑っていた。美しいということは、楽しいことなんだと思った。
今は、複素数という言葉は覚えているけれど、面白い!と思った解説の方は忘れてしまった。でも、「複素数は美しいだろう」と言った父の笑顔は、今でもはっきり覚えている。
面白いこと、美しいことを、楽しめる。その力は、あの日の父から、もらったのかもしれない。

2016-06-22 | Posted in つれづれ, ブログComments Closed 

 

第三回東京教室研鑽会 無事に終了!

梅雨入り直前の6月4日(土)、代々木能舞台で、第三回東京教室研鑽会を開催しました。
今回は、初の試みとして、フィナーレに踊りを発表。演奏にお囃子に、朝川会総出演。
踊りを始めたばかりでもう初舞台に挑戦の方も!友情出演で花を添えてくださった方のお力も借り、にぎやかに「かっぽれ」で盛り上がって終了しました。

今回も、初舞台の人、初めて笛を発表した人、弾き唄いに挑戦、合奏に挑戦と、いろんなことに挑戦した研鑽会でした。
うまくいった人も、悔しさが残る人も、皆、終演後は打ち上げで盛り上がりました。
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次は、秋のお浚い会。10月8日(土)、場所は同じく代々木能舞台です。
お浚い会の曲も決め、お稽古も早速開始しています。
皆様、秋も頑張りましょう!
皆様、ぜひお越しくださいませ。お待ちしております。

2016-06-19 | Posted in ブログ, 朝川会Comments Closed 

 

山盛りの山

先日、久しぶりに温泉旅行に行った。新潟の魚沼市の山のひなびた温泉である。
最初は、街中を観光をしていて、緑が濃くなってきている田んぼや、広々と流れる川を見て楽しんでいた。
さあ、宿へということで、山へと向かう。
小さな町や集落を抜けながら、川沿いに進む。だんだんせまってくる山々。たくさんの種類の広葉樹が、盛り上がるように枝葉を広げ重なっている。こんなにもたくさんの緑という色があったのか。夏に向けてもりもりと重なっている木々たちの、成長するエネルギーに圧倒された。宿のまわりも、一面にいろんな草花が生えている。もちろん植えたものではない。大きな葉に大きな花を咲かせているもの、ひっそりと草の中で薄紫の小さな花を咲かせているもの、これでもかと尖った葉を広げて茂っているもの。どこもかしこも、生きるエネルギーでいっぱいだ。
夕食は、山菜や野菜が中心。どれもおいしい。ふと思う。
毎日、畑や庭の草取りをしているけど、山は草取りなんかしない。それでも、あんなにぐんぐんいろんなものが育っている。この山菜も肥料をやったり、草取りしたり、人間がお世話をしたわけではない。
なんだか不思議だ。毎日、畑や庭の草取りをしたり、水をやったりして、自然と仲良くやっていたつもりだったが、あれは、自然と人間が接触している領域での、ほんの小さなかたちで、実は自然そのものは、自分たちで、こんなにも力強く、生きているんだなあ。
その力に、山でまさに圧倒された。
いやまて、人間だって、私だって、自然の一部だよね。これは、自分と身体の関係にもいえるのかもしれない。
私は、自分の身体に対して、草取りや、肥料をやりすぎていたりしないだろうか?私の体は、畑じゃなくて、山、みたいにしなくちゃいけないのかもしれない。
もしかしたら、これは、社会にも言えるかもしれない。
自分のまわりで、雑草を抜いたり、虫を殺したり、肥料をやったりしすぎていないだろうか。
翌日はロープーウェイで山へ。雲の隙間からちらりと田んぼが見えた。

2016-06-17 | Posted in ブログ, 自然Comments Closed 

 

くまんばち

庭の紫陽花が、少し色づいてきた。新潟も梅雨入りだ。

裏庭のジギタリスにクマンバチが来ていた。段々に縦につながってたくさん咲いている花を、あっち、こっちと順番に潜っては、蜜を吸っていた。
大きくて羽音が大きいので、クマンバチがいるのは、すぐに気がつく。身体がふわふわした毛で覆われているので、クマンバチというのだろうか。さぞかし、花粉もたくさんつくだろう。
私は、結構虫好きである。蝶、蜂、トンボ、鈴虫やコオロギなど、決まった季節に、決まった虫たちが、せっせと働いているのを見るのが、とても楽しいのだ。
ズッキーニの花には、いつも同じ、ちいさな虫が入っている。真夏のゴーヤの棚は、小さな蜂がたくさん飛び交ってうるさいくらいだ。マツバボタンにも蜂がたくさんくる。
虫たちは、日が昇ると、せっせと働き、せっせと食べている。
庭や畑には、自分たちが植えたものや、自然に生えているものなど、沢山の植物がある。それぞれが大きくなり、花を咲かせ、それぞれにあった虫が来ている。姿がかわいいものもあれば、ちょっと気持ち悪いのもある。
皆、せっせと食べて、生きている。そして、季節が変わると、他の虫たちに入れ変わる。
クマンバチは、花粉がつきやすいように身体に毛があるのだろうか?それは、蜜をもらった恩返しなのか?いやいや、来年も再来年も蜜が食べられるように、受粉の手伝いをしているのだろうか?
どっちだろう?たぶんどっちもだ。
ジギタリスの花は細長い。蜜を吸っているクマンバチはお尻しか見えない。これもまたかわいい。

2016-06-14 | Posted in ブログ, 自然Comments Closed 

 

病気にならない病院

東京教室研鑽会は、無事に終了。レポートは近日中にアップ予定。
研鑽会の翌日に東京は梅雨入り、新潟はまだまだ。庭にはあざみが咲いている。

先日同窓会紙を読んでいたら、「病気にならない病院」、未病の病院を作るのが夢だったと書いている方がいた。その方は、いろんな医師に声をかけたが、一緒にやろうという人はいなかったと言う。
未病の病院を作るということに賛同する医師がいないというのは、色々な理由があるのだと思うが、病気にならないようにすることは、医者の仕事ではないということなのだろうか。確かに、医者の仕事は、病気を治すことだと、なんとなく思っている。
病気にならない、という仕事は、医者の仕事ではないのかもしれない。
ふと、病気にならない生活指南というものが、江戸時代にあったのを思い出した。貝原益軒の「養生訓」である。「養生訓」には、身体と精神を養生することで、病気にならないようにということが書いてある。貝原益軒は、儒学者だ。
病気を治すには、医者や薬が必要かもしれないが、病気にならないということには、必ずしも医者や薬が必要なのではなく、自分の行いで、できることなのかもしれない。
そうすれば、たしかに病気にならない病院を作ろうという医者がなかなか見つからなかったのも、頷ける。
病気にならない道を進むための運転手は自分、そして車は自分の身体。
「養生訓」は、そのためのナビなのかもしれない。

2016-06-09 | Posted in つれづれ, ブログComments Closed 

 

工場育ちの野菜

キウイの花が、花ざかり。もう小さな実もできている。

工場でできた野菜というのを初めて食べた。それは、一掴みほどのレタスが、袋に入っているものだった。しゃきしゃきとしたさらっとした味の野菜だった。
謳い文句には、クリーンルームで育っているので、ついている細菌が少なく洗わずにそのまま食べられるというものと、低カリウムということが書いてあった。
工場内の棚に整然と並べられ、人工光の元で育つらしい。
野菜は普通、畑で育つ。土に種が蒔かれ、雨と太陽の光で、芽を出して成長する。葉っぱを食べる虫もいれば、受粉を手伝ってくれる虫もいる。土の中や表面に無数にいる微生物と共生しながら、生きている。
生まれて、生きて行くということは、様々な生き物の中で、生きていくということのような気がする。
工場の野菜はどうだろう。土と触れることもなく、虫とも出会わず、太陽を見たこともない一生。目にする生き物は、隣の同士の同じレタスと、人間だけ。
なんだか、ちょっと淋しい。
太陽を見たかったかな。虫とお話したかったかな。
それとも、見たこともないんだから、そんなことも考えなかったんだろうか。
わたしたちの毎日は、どうだろう。

2016-06-02 | Posted in ブログ, 自然Comments Closed 

 

名前

庭の山椒に実が沢山実っていた。一粒かんでみたら、舌が猛烈にビリビリした。しばらくとれなかった程の威力だ。やはり山椒は小粒でもひりりと辛い。

日本史の本を読んでいたら、本拠を京都に移した平安京の頃、「諸地域の下級役人が氏名を中国風に改め、高位の貴族を含めて、実名もそれまでの動物や自然の名を用いるのをやめ、通り字をふくむ好字や抽象的な漢字をつけるようになった」、とあった。
では、それまでの自然や動物の名前ってなんだろうと考えてみた。
周りの人の名前を思い浮かべてみる。
田中、木村、山田、吉田、立川、佐藤、近藤、土田、、、。
新潟だからなのか、田が多い。山、川、木、確かに自然のものを付けた名前ばかりだ。
櫻井、梅津、近藤、松田、菊田、小栗、草野、植物も多いなあ。
動物はどうだろう。小熊、大熊、熊田。熊って多い。馬場、鶴巻、亀山、、、、植物に比べると動物は少ないかなあ。
自然や動物を人名や地名に付けるって、当たり前すぎてなんの違和感もないけど、そうじゃない名前をつけたってことは、どういう名前になるのだろう。
藤原仲麻呂が唐風につけた名前、恵美押勝じゃないけど、たとえば、恵みあれ、とか、私は強いとか、勝つとか、高潔だとかだろうか。なんだかすごく自己主張の強い、願望がてんこ盛りの感じがする。
自然の名前ってなんだろう。
山川だったら、きっと、山と川のそばに住んでいますって意味じゃないだろうか。
池田だったら、池と田んぼの所に住んでいますとか。川瀬だったら、川のそばに住んでいますとか。そうなると、名前には、主張や願望が感じられない。
唐風の名前は、概念や権力、希望、意志が感じられる。
日本風の名前は、私は山と川のそばに住む者です。という位のものだ。
これは、名前でありながら、個としてのアイデンティティを強調しない、とても匿名性の強いもののような気がする。
名前、というと、固有性が強いもののような気がするが、自然や動物をつけている日本人は、あえて、アイデンティティを捨てている。
そういえば、端唄の文句には、主語がない。特定の場所、時の特定の人の、特定の物語ではない。
突然始まって、ぱっと咲いた花のようで、そのまま終わる。
アイデンティティのない、そんなものを追求していない、匿名性の高い唄なのかもしれない。
それを、心地よしとする江戸の人の心があったんだと思う。
それは、とてもこざっぱりしたもののような気がする。
江戸の人は、「こざっぱり」したものが好きだったのだ。

2016-05-29 | Posted in ブログ, 邦楽文化Comments Closed 

 

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