名前

庭の山椒に実が沢山実っていた。一粒かんでみたら、舌が猛烈にビリビリした。しばらくとれなかった程の威力だ。やはり山椒は小粒でもひりりと辛い。

日本史の本を読んでいたら、本拠を京都に移した平安京の頃、「諸地域の下級役人が氏名を中国風に改め、高位の貴族を含めて、実名もそれまでの動物や自然の名を用いるのをやめ、通り字をふくむ好字や抽象的な漢字をつけるようになった」、とあった。
では、それまでの自然や動物の名前ってなんだろうと考えてみた。
周りの人の名前を思い浮かべてみる。
田中、木村、山田、吉田、立川、佐藤、近藤、土田、、、。
新潟だからなのか、田が多い。山、川、木、確かに自然のものを付けた名前ばかりだ。
櫻井、梅津、近藤、松田、菊田、小栗、草野、植物も多いなあ。
動物はどうだろう。小熊、大熊、熊田。熊って多い。馬場、鶴巻、亀山、、、、植物に比べると動物は少ないかなあ。
自然や動物を人名や地名に付けるって、当たり前すぎてなんの違和感もないけど、そうじゃない名前をつけたってことは、どういう名前になるのだろう。
藤原仲麻呂が唐風につけた名前、恵美押勝じゃないけど、たとえば、恵みあれ、とか、私は強いとか、勝つとか、高潔だとかだろうか。なんだかすごく自己主張の強い、願望がてんこ盛りの感じがする。
自然の名前ってなんだろう。
山川だったら、きっと、山と川のそばに住んでいますって意味じゃないだろうか。
池田だったら、池と田んぼの所に住んでいますとか。川瀬だったら、川のそばに住んでいますとか。そうなると、名前には、主張や願望が感じられない。
唐風の名前は、概念や権力、希望、意志が感じられる。
日本風の名前は、私は山と川のそばに住む者です。という位のものだ。
これは、名前でありながら、個としてのアイデンティティを強調しない、とても匿名性の強いもののような気がする。
名前、というと、固有性が強いもののような気がするが、自然や動物をつけている日本人は、あえて、アイデンティティを捨てている。
そういえば、端唄の文句には、主語がない。特定の場所、時の特定の人の、特定の物語ではない。
突然始まって、ぱっと咲いた花のようで、そのまま終わる。
アイデンティティのない、そんなものを追求していない、匿名性の高い唄なのかもしれない。
それを、心地よしとする江戸の人の心があったんだと思う。
それは、とてもこざっぱりしたもののような気がする。
江戸の人は、「こざっぱり」したものが好きだったのだ。

2016-05-29 | Posted in ブログ, 邦楽文化Comments Closed 

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