「積む」と「流れる」 続き

雨が降ると、庭の緑は美しさを増す。雨がごちそうなんだ。

日本人は人生を、「流れる」と感じる。西洋人は、「積む」と感じる。
「流れる」というのは、「流される」とは違う感じがする。流れと同時進行でいるのだと思う。
自分はすでに、ある流れに乗っている。そこから逃れようとか、別の流れに乗り換えようということではないような気がする。
自覚して流れているかどうかは別だが、気がつけば、流れに乗っているという感じだろうか。
ふと、「ハックルベリー・フィンの冒険」を思い出した。途中の冒険もさることながら、日本では考えられない程幅の広い大きな長い川を、筏に乗ってただただ毎日流れている。あの感覚が、なんだか身体感覚として残っているのだ。怖いような、楽しいような。不思議な感覚だった。夜明けの光景、昼の光、夜の星、ぽかんと大きな空間が自分の上にひろがっていて、その下を自分は流れていく。
ちょっと湿ったような、なつかしい感覚を思い出した。
「積む」というのは、どんなだろう。
うまく積まないと、壊れてしまうし、それ以上積めなくなってしまうかもしれない。だから、設計図もいるだろうし、積む前に、整地したり、頭の中でシミュレーションしなければいけないかもしれない。
でも、「流れ」は違う。気がつけば流れているのだから。
今日も流れている、さて。

行く水に 雨はそぼ降る 河岸の灯よ

「柳の雨」を口ずさんでみる。季節はもうすぐ梅雨。

2016-05-22 | Posted in つれづれ, ブログComments Closed 

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