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春のうた

お盆になる頃、綺麗に咲く花。百日草。暑さもなんのそのの夏の色。

漢詩が結構好きだ。授業で習った時も、その絵的な漢字の連なりや、なんだか雄大な雰囲気、ちょっと異国情緒が好きだった。書き下し文の言葉の調子も好きだった。中国語で読むと、違った音楽的な面白さがあるのだろうが、残念ながら、それはわからない。
江戸時代にも漢詩が流行ったそうで、「唐詩選」はかなりポピュラーだったらしい。その江戸時代の訳が、授業の書き下し文しか知らなかった私には、かなりびっくりだった。

子夜春歌

郭震

陌頭楊柳枝
己被春風吹
妾心正断絶
君懐那得知

これを書き下し文にすると、

陌頭楊柳の枝
己に春風に吹かる
妾が心 正に断絶す
君が懐ひ 那ぞ知るを得ん

これは、授業で習った漢文の読み方だ。
これが、服部南郭、柳沢洪園の手にかかると、

町のほとりの柳さへ
あれ春風が吹くわいな
わしが心の遣るせなさ
思ふとのごに知らせたい

なんだか、そのまま三味線に乗せて端唄になりそうである。ふわっとした可愛らしさと色っぽさ。江戸の町なかで、柳の下で春風に吹かれている女性が見えるようである。
なんだかいいなあ。

2016-08-12 | Posted in ブログ, 邦楽Comments Closed 

 

自由な端唄

暑い。暑い。一年で一番暑い頃だ。木陰で朝顔が咲いていた。

端唄を始めて、洋楽との違いに驚いたことは、色々ある。
中でも、メロディが固定されていないことには驚いた。同じ曲でも、人によってメロディが変わることもある。更に、歌詞が変わると、メロディが変わってしまうのだ。
たとえば、「からかさの」という歌のメロディがある。この部分を、たとえば女性で声が高くてきれいで、そこを聞かせたいと思えば、「ドミミシシ(ドとミは、シより上の音)」というメロディで唄う。ところが男性でそこまで高い音ではない方を好む場合は、「ラシシミシ(この場合のミは、シより下の音)」というメロディで唄う。
これにはかなりびっくりした。クラシック音樂のピアノを子どもの頃に習っていた私は、曲のメロディは一音も変わることの無いもの。メロディが固定で、そこに歌詞が乗るものと思っていたのだ。
端唄のこれはどういうことか?
「どういう時に、どのような法則が?」おそるおそる聞いたものの、「好きに唄えばよい」との答えだった。ただ、「なまってはいけない。その言葉がその言葉に聞こえないように唄うのはよくない」とのことだった。
つまり、まず、言葉があって、唄がある。おおまかなメロディはあるが、その言葉がその言葉に聞こえれば、細部は自由であるということである。
「からかさ」が、「か」と「らかさ」と聞こえれば、言葉として意味はなさないが、「からかさ」と聞こえ、曲全体を壊さなければ、ある程度の自由度があるということである。
「それじゃあ、どうしたらいいんだ?」かなり迷ったが、迷っていてもしかたがないので、ひたすら聞いたり、唄ったり、弾いたりした。
そうすると、「うん、これが好き」とか、「今日はこっちの気分」とか、だんだん自然に思うようになった。絶対的な一つの見本がなくても、なんでもないことだったのだ。
わかってしまえば、あっけらかんとしたものだった。
つまり、誰かのとか、どれかの、に自分を当てはめてしまわなくても良いということだ。
これは、相当自由で楽しい。
更に、端唄には、替え唄が多いが、歌詞が変わるということは、言葉が変わるということで、更に更に、メロディが変わってしまう。
先ほどの「からかさの」が、「雪を」になると、たとえば「ゆきいいを(ラシラミシ(ミはシより低い音)」になる。もちろん、これと違ったメロディで唄ってもよいし、その日の気分で変えても良い。続けて唄う別の歌詞とのバランスもあるし、しっとり唄いたいのか、にぎやかにしたいのかにもよる。そしてそれは、自分が決めて良い。
こんなに自由で楽しい音楽があったのかと、お腹の底からゆかいな気分になった。
朝川会の「楽しい端唄」は、ここから始まっている。

2016-08-09 | Posted in ブログ, 邦楽文化Comments Closed 

 

音樂

暑い暑い毎日に、熱い色で鮮やかに咲くケイトウは、夏に合う。

「和音は心地よく不協和音は不快だという感覚は、人類が生まれながらに共通して持つ」という見方が、これまでの常識だったらしい。ところが、西洋音楽に慣れていないアマゾンの先住民は、不協和音を聞いても不快に感じず、和音と不協和音で好みに差はなかったということが、先ごろ米国などの研究チームによって研究結果としてまとめられたという。
三味線音楽には、西洋音楽的な和音は無い。三味線は単音で弾くことが多く、時々二つの音を一緒に弾く。三本一緒に弾くことは、まず無い。唄は、斉唱である。
ハーモニーは、音に厚さと膨らみを持たせるものだ。では、三味線音楽は音が薄っぺらなのかというと、そうではない。
三味線には、「さわり」がある。「さわり」とは、一番太い糸が微妙に棹に触ることによってでる雑音(ノイズ)である。これが、音に厚さと膨らみを持たせているのだ。勘所というところを押さえて音を出すと、糸(弦)同士が共鳴する。そしてその糸を弾いていなくても一番太い糸(弦)も震えるので「さわり」の音も出る。三味線の音に倍音と雑音(ノイズ)が共に加わる。糸を弾くと同時に、太鼓の構造になっている部分も撥で叩くのでその音も加わる。ハーモニーではないが、和音よりも複雑な厚さと膨らみが音に加わる。
三味線音楽は、ハーモニーを聞くのではなく、「音」そのものの複雑な厚さや膨らみを聞くものなのではないかと思う。
江戸から明治になって、新しい学問の体系を作る時、「音学」という名前にしようという提案に対し、江戸音曲で育った人たちは、「それは絶対にだめだ。違う。「音楽」でなければならない」と主張したという話を読んだことがある。
音は学ぶものではない。音は楽しむもの。音色を聞いて楽しむもの、なのだと思う。

2016-08-03 | Posted in ブログ, 邦楽Comments Closed 

 

父の涙

暑い。今日は風もなく、じっとしたままの空気の暑さだ。芙蓉がひらひらと暑さなどどこ吹く風だ。

私の父は、だいぶ弱ってしまった。体力的にもそうであるが、認知の面でも、そうである。残念ながら、私のことは、自分の子どもだとは思っていないようだ。でも知っている人だとは思っているらしい。もっとも、自分の現在の歳が、30代とか20代のこともあるので、それより明らかに年上に見える私を、自分の子どもと思うのは無理かもしれないが。
先日、母が介護の際に指を痛めて辛そうだったので、ショートステイの話しになり、「一週間くらい、どこかに泊まりにいく?」と父に話しかけてみた。
そして、そのまま母と話を続けていて、ふと父を見たら、両目から涙がにじみだしていた。びっくりした私は、「あ、ごめんね。うそだから。冗談だから」と声をかけたが、父は黙って目を閉じて、じっと横になっていた。そして、その両目からは、静かに涙がにじみ続けている。
そうなのだ。私は、わかった。
聴覚は最後まで残るという。私たちが、もう何を話しているかわからないよね、と思っていても、わかっているのだ。けれども、それを、言葉にして、返答できないだけなのだ。
そうなのだ。きっとそうなのだ。
父の涙は、透明で少ない涙だ。でも、そこには、たくさんのものが詰まっていた。
涙を出したそこから、言葉になるところまで、どこがふさがっているのだろう。そこをきれいにお掃除したい。
見えないからといって、ないわけではない。通路があるのか無いのか。ふさがっているのか、つながっているのか。あると思っているのか、ないと思っているのか。見ようとしているのか、見ないようにしているのか。
あることと、あると思っていることは違う。父の涙が教えてくれた。

2016-07-30 | Posted in つれづれ, ブログComments Closed 

 

夏が来た

雨で庭の花が地面にお辞儀。花びらが散っていた。

新潟は、先週梅雨明けと発表があった。それなのに、それほど真夏という感じにはならず、朝晩は少し涼しかった。それになんといっても、蝉が全然鳴かない。これは、どういうことだと、ちょっと不安になった。蝉は一日中うるさいくらいでに鳴き、暑苦しいようでもあるが、夏が来たと実感する音でもあった。
それなのに、全然鳴かない。もしかして、今年のアメリカシロヒトリの薬剤が、強くなっていて、何か蝉に悪いことが起きたのだろうか?そういえば、マツバボタンにブンブンと、遠くからでも聞こえてくるくらい大きな音で、朝の開花に合わせて集まる蜂の羽音も聞こえない。
いよいよ不安になっていたところ、昨日は一日かなりの雨、そして、今日の午後から、文句なしの夏空になった。
関東は梅雨明けとのニュース。なんと、午後から急にたくさんの蝉が鳴き出した。
お、これは?そうなのだ。新潟も本当は今日が梅雨明けなのだ。気象庁よりも蝉がよく知っている。トマトが急に真っ赤になってきた。野菜も知っている。
昨日の雨と、今日の日差しで、入道雲と一緒に、夏もぐんぐん湧いてきた。
暑い、暑い、けれども、心地よい。
そして夜は、まだほんの少ししか鳴いていない虫の声を聞きながら、扇風機にあたる。
これまた心地よい。
さあ、夏だ。明日のお稽古は浴衣で出かけよう。

2016-07-28 | Posted in ブログ, 自然Comments Closed 

 

ミミズ

今朝は雨、今は上がって夏空が広がっている。

新潟も梅雨があけた。連日、夏日だ。夏草たちは、今を盛りと庭に畑に生い茂っている。日中は暑いので、朝の早い時間と夕方に草取りをする。
ここは良い土だなと思って草を取っていると、ミミズが出てくる。「やはりいたか、ありがとう」と思う。
ミミズは、良い土を作ってくれる。ミミズがたくさんいる畑はよい畑だ。
ミミズは単純な形をしているので、ごく下等な動物と思われがちだが、違う。祖先は複雑な形態をしていた。ミミズは地中生活に合わせるため、複雑な形から単純な形に更に進化したという。進化というと、より複雑に、より精密になると思いがちだが、どうやらそうでもないらしい。
三味線も、単純な構造のため、「原始的楽器」と言われることがあるらしいが、それも違うのではないかと思う。
より、自由な音を求めるとき、その欲求に合わせるため、いかようにも音が出せるように楽器の構造が単純になる方向に進化した、ということも考えられると思う。
三味線にはドレミがない。最初はとまどったが、今では、三味線にドレミを考える方が、窮屈だ。たとえば三味線で、仮に洋楽の「ファミレミ」というメロディーをある曲で弾くとした場合、「ファ」の音の高さ(周波数)は厳密にはいつも同じではない。
それは、その時の曲の感じかもしれないし、その日の気分かもしれない。そして、その人の性格にもよるかもしれない。
たとえば、同じ曲でも、しっとり演奏したい時は、ファの音が低めかもしれない。その人がその日気分が高揚していれば、高くなるかもしれない。落ち着いた性格なら、音は低めかもしれない。
では、どれが正解なのか?それは、すべてだ。その演奏が、心地よければ、それでいいのだ。心地よい演奏とは、同じ周波数を再現することではなく、たぶん別のものが物差しになっている。
音が狂っている、と思われるかもしれない。でも、それは、この音は、この周波数でなければいけないという物差し、きまり、思い込みがあるからだ。
その物差しを固定の周波数ではなく、その時の気分の良い音、という物差しに変えればいいんじゃないかと思う。
こういう音楽は、原始的だろうか?それとも進化形だろうか?

2016-07-27 | Posted in ブログ, 自然, 邦楽文化Comments Closed 

 

たまちゃんずプラス1、秋葉区で演奏

新潟市秋葉区の特別養護老人ホーム「かんばらの里」に、たまちゃんずプラス1で、ボランティアに伺いました。この日は、夕涼み会ということで、浴衣姿で三味線と締太鼓で端唄を演奏。「四季の新津」など、地元の唄も織り交ぜ、一緒に唄っていただいたりと、楽しい時間を過ごさせていただきました。
次回は、9月にまた秋葉区で演奏します。
朝川会のボランティア演奏、広がっています。

2016-07-25 | Posted in ブログ, 朝川会Comments Closed 

 

ダンゴムシ

紫陽花ももう終わりだ。少し前の写真で、ガクアジサイ。この花も好きだ。。

ダンゴムシは小さい時から、身近な虫だ。どこにでもいるし、石をどけるとその下には、いつもたくさんいた。ちょっと触ると、くるっと丸く団子状になってしまう。それがおもしろくて、子どもの時によく遊んでいた。
畑の草をとって積んでおくと、すぐにその下は、ミミズとダンゴムシでいっぱいになる。ダンゴムシは草を食べて分解してくれるし、ミミズは、さらにそれを食べてよい土を作ってくれるので、両方共、畑にとってはありがたい虫たちである。
先日、草の下にダンゴムシがいっぱいいたので、皆踏みつぶした、と言っていた知り合いがいた。残念。ダンゴムシはいい土にするのに必要なのに。益虫ですよと教えたら、びっくりしていた。
何も悪いことをしていない、もしくは良いことをしているのに、嫌われて害虫だと思われる虫たちを、不快害虫というのだそうだ。ダンゴムシもその一つらしい。なんだか可愛そうだ。
もっとも害虫とか益虫というのは、人間からみての話しだから、他の生き物からみたら、益虫、害虫も違うかもしれない。それに、昆虫の世界は、まだわかっていないことがたくさんあって、害虫かと思っていたら益虫かもしれないということもあるらしい。それに、もっと大きな自然の循環からみたら、益虫も害虫もないかもしれない。
でも、ただ草を食べていただけで、踏み潰されちゃったダンゴムシたちにとって、人間は間違いなく害虫、いや害人なんだろうな。

2016-07-17 | Posted in ブログ, 自然Comments Closed 

 

東京でも新潟でも、笛のお稽古


東京教室では、すでに以前から笛のお稽古をしていましたが、新潟教室でも、3月から笛のお稽古が始まりました。講師は福原百麗先生。東京教室でも、笛を教えていただいています。現在4名で、お稽古をしています。

笛は皆さん初心者ですが、「日中の仕事の合間にちょっとでも時間が空くと吹いてます」、「三味線と笛のお稽古は必ずセットです」と、その意気込みは相当なもの。すでに、秋のお浚い会には、皆で笛の初舞台か?と盛り上がっています。
東京教室も、笛のお稽古を今年から始めた方が3名、合計9名でお稽古をしています。「お互いの発表に笛をあしらったりしたい」と、こちらもお稽古に熱が入っています。
笛や太鼓などの鳴り物を入れると、端唄の演奏は、もっともっと楽しくなります。
ますます端唄のお稽古の、楽しみの幅が広がっています。

2016-07-07 | Posted in ブログ, 朝川会Comments Closed 

 

自由な三味線

昨日、東京は夕方雷雨。その後、きれいな虹が出た。しかも二重の虹!良いことありそう?新潟では、ナツツバキが花ざかりだった。

三味線のチューニングは、「調子を合わせる」、という。洋楽しか知らなかった私は、基本的な調子が三種類あると知ってびっくりした。ある調子の時は、「ド」の音の場所が、別の調子だと「ミ」になる。それを頭で置き換えようとしたが、こんがらかって、わからなかった。しかも、三本の糸の音も、唄う人の高さに合わせて、全体に上げたり下げたりするという。絶対音感を誇っていた私は完全にパニックだった。
さて、どうするか。考えてもどうしようもないので、何も考えずに、ひたすら習ったまま、繰り返して弾くだけにした。そうしたら、耳と手が直結して、そのように弾くのが当たり前になってしまい、絶対音感など忘れてしまった。
三味線のチューニングは、一番低い音の糸を、どの音に合わせるかで決める。調子は数字で表し、4本なら洋楽でいうド、6本ならレだ。しかし、これもたんなる目安で、たとえばいつも4本で唄っている人でも、「今日はちょっと調子が悪いから、4本メリで(メリとは低いという意味)」となったりする。糸をちょっとゆるめるだけなので、どんな高さでも自由自在である。
最初はびっくりしたが、こっちの方が、合理的なんじゃないか?そんな気がした。たとえばピアノなら、ちょっと低く唄いたいとなったら、転調しなければならず、とても大変だ。黒鍵が多くなったりして、弾きにくくなったりする。でも、三味線は、全体を上げ下げするので、どんな高さでも、弾き方は一緒だ。
それにピアノの場合は、半音の半分低くなど、できない相談だ。それを思うと、三味線は、なんだか、とても、自由で楽しい気がした。
目の前に立ちはだかる壁を前に、「どうやって乗り越えましょうか?」と言っている人たちの横で、壁の脇をするっと通り抜け、「登らなくても、横からきたらどうですか?」と向こう側から言われているような気がした。
でこぼこの道がずっと続くのを前に、「どのように舗装しましょうか?」と言っている人たちを横目に、靴をはいて、さっさと歩き出している人を見たような気がした。
なんだか、発想の転換というか、そうか、人間が合わせなくても、そっちを動かせばいいんじゃない?という、あっけらかんと脱力した、愉快な気分がした。
非常に精巧な楽器を作って、出来上がったものに使う人間が合わせる。もしくは、自由自在になる部分を多く残したシンプルな楽器を作って、使う人間に楽器をあわせる。どちらかだ。
私が、三味線が好きなのは、そんなこともあるのだな。

2016-07-05 | Posted in ブログ, 邦楽Comments Closed 

 

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