父の涙

暑い。今日は風もなく、じっとしたままの空気の暑さだ。芙蓉がひらひらと暑さなどどこ吹く風だ。

私の父は、だいぶ弱ってしまった。体力的にもそうであるが、認知の面でも、そうである。残念ながら、私のことは、自分の子どもだとは思っていないようだ。でも知っている人だとは思っているらしい。もっとも、自分の現在の歳が、30代とか20代のこともあるので、それより明らかに年上に見える私を、自分の子どもと思うのは無理かもしれないが。
先日、母が介護の際に指を痛めて辛そうだったので、ショートステイの話しになり、「一週間くらい、どこかに泊まりにいく?」と父に話しかけてみた。
そして、そのまま母と話を続けていて、ふと父を見たら、両目から涙がにじみだしていた。びっくりした私は、「あ、ごめんね。うそだから。冗談だから」と声をかけたが、父は黙って目を閉じて、じっと横になっていた。そして、その両目からは、静かに涙がにじみ続けている。
そうなのだ。私は、わかった。
聴覚は最後まで残るという。私たちが、もう何を話しているかわからないよね、と思っていても、わかっているのだ。けれども、それを、言葉にして、返答できないだけなのだ。
そうなのだ。きっとそうなのだ。
父の涙は、透明で少ない涙だ。でも、そこには、たくさんのものが詰まっていた。
涙を出したそこから、言葉になるところまで、どこがふさがっているのだろう。そこをきれいにお掃除したい。
見えないからといって、ないわけではない。通路があるのか無いのか。ふさがっているのか、つながっているのか。あると思っているのか、ないと思っているのか。見ようとしているのか、見ないようにしているのか。
あることと、あると思っていることは違う。父の涙が教えてくれた。

2016-07-30 | Posted in つれづれ, ブログComments Closed 

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