ブログ

「積む」と「流れる」 続き

雨が降ると、庭の緑は美しさを増す。雨がごちそうなんだ。

日本人は人生を、「流れる」と感じる。西洋人は、「積む」と感じる。
「流れる」というのは、「流される」とは違う感じがする。流れと同時進行でいるのだと思う。
自分はすでに、ある流れに乗っている。そこから逃れようとか、別の流れに乗り換えようということではないような気がする。
自覚して流れているかどうかは別だが、気がつけば、流れに乗っているという感じだろうか。
ふと、「ハックルベリー・フィンの冒険」を思い出した。途中の冒険もさることながら、日本では考えられない程幅の広い大きな長い川を、筏に乗ってただただ毎日流れている。あの感覚が、なんだか身体感覚として残っているのだ。怖いような、楽しいような。不思議な感覚だった。夜明けの光景、昼の光、夜の星、ぽかんと大きな空間が自分の上にひろがっていて、その下を自分は流れていく。
ちょっと湿ったような、なつかしい感覚を思い出した。
「積む」というのは、どんなだろう。
うまく積まないと、壊れてしまうし、それ以上積めなくなってしまうかもしれない。だから、設計図もいるだろうし、積む前に、整地したり、頭の中でシミュレーションしなければいけないかもしれない。
でも、「流れ」は違う。気がつけば流れているのだから。
今日も流れている、さて。

行く水に 雨はそぼ降る 河岸の灯よ

「柳の雨」を口ずさんでみる。季節はもうすぐ梅雨。

2016-05-22 | Posted in つれづれ, ブログComments Closed 

 

月がきれいですね


先日、朝の連ドラを見ていたら、大学生の男性が、主人公に向かって、「月がきれいですね」というシーンがあった。これを見ていた主人公の妹が、「きっとあの方はお姉さんが好きなんだわ」と言う。その根拠は、「だって、夏目漱石が言ったのよ。「アイ ラブ ユー」を「我汝を愛す」と訳した学生に、「日本人はそんな言い方をしない。月がきれいですねとでも言っておきなさい」って」と続くセリフにある。
たしかにそうかもなあと思う。端唄の文句にも、「我汝を愛す」なんていうのは、まず無い。
今日は雨。こんな端唄を口ずさみたくなる。

からかさの 骨はばらばら 紙ゃ破れても
離れ 離れまいぞえ 千鳥がけ

これはもちろん傘の唄ではない。私とあなたは、決して離れないわ、という恋の唄である。
「我汝を愛す」と言われるより、ずっといい気がする。
「我汝を愛す」だけじゃ、その言葉に乗せきれない思いの方が、ずっと沢山あるような気がする。言葉にしてしまった瞬間に、「そうじゃないんだ。それだけじゃないんだ」という思いになってしまう。
だから、「愛す」ではなく、「からかさ」なのだ。
この最後の文句を、「命がけ」と覚えていた人がいた。気持ちはそうでも、やっぱり「千鳥がけ」の方が、ずっといい感じである。

2016-05-17 | Posted in ブログ, 邦楽文化Comments Closed 

 

「たまちゃんず」デイサービスで演奏


朝川会のボランティア演奏の元祖「たまちゃんず」。昨年、ユニットを結成し、デイサービス等へボランティア演奏活動をしています。
4月24日は、新潟市秋葉区のデイサービス「かんばらの里」で演奏。
唄に三味線、お箏に楽しいおしゃべり。「梅は咲いたか」などお馴染みの端唄に、「さくら」など一緒に口ずさめる曲などもおりまぜ、皆様に楽しい時間を過ごしていただけました。こちらの施設には昨年から何度か訪れており、次回もまた!との声もいただいています。
朝川会のボランティア活動、ますます充実です。

2016-05-16 | Posted in ブログ, 朝川会Comments Closed 

 

田植えの手伝い

毎年連休は、友人の家の田植えを手伝いに行っている。かれこれ6年目。いつもお弟子さんたちと一緒だ。今年も、東京から5人が参加した。ベテランあり、初参加あり、久しぶりの人ありと、皆で2日間、田植えのお手伝いをした。
新緑の里山に囲まれ、5月の日差しと風を受けながら身体を動かして働くことは、無条件に楽しい。皆、働きながら満面の笑みだ。
昼食も山菜、筍、おいしいお米と、里の恵みが満載。そして仕事の仕上げは温泉、ビール。
身も心も、美味しい楽しい田植えだった。
苗を植えた後は、水と太陽の光と土とで、苗は大きくなっていく。秋の収穫までは、肥料、水の管理、草取りなど、美味しいお米になるための数多くの作業が続く。
そうして秋に、やっと私たちの食卓に、おいしい新米として上がるのだ。
私たちの食べるものは、本当は、買うものではなく、自然からいただくものなんだ。
食べるものと私たちの間にあるものは、「お金」ではなく、「人の手」、「手間」だ。
大地、自然に手をかけて、そこから収穫したものをいただく。食べることを、いただくというのは、そういうことなんだなあと思った。
お手伝いを終えて、地元の温泉の露天風呂へ行った。山は新緑。色とりどりの緑をまとっている。むくむくと湧いてくるような緑の木々だ。なんだかお腹がすいてきた。
夜は、山菜と地酒で、打ち上げだ!

2016-05-05 | Posted in ブログ, 自然Comments Closed 

 

「積む」と「流れる」

先日、夕暮れがとてもきれいだった。透明感のある空気は、心まで透き通るようだった。

先日、本を読んでいたら、「日本人が人生というものを考えるときにどちらかというと時間的に考える。ヨーロッパ人はどちらかというと、空間的な思考をするかもしれません」とあった。そして、「日本人は時間的に考えて、人生を旅するというところがある」と書いてあった。語っているのは、武満徹である。
これを読んでびっくりした。私は、人生は時間的にしか考えたことがなかった。「月日は百代の過客にして」ではないが、月日は一本の川のように流れていくイメージしか持ったことがなかった。
「人生が空間的とは、どういうことか」。しばし、考えた。
たぶんそれは、人生が大きな部屋のようなもので、生きて行くということは、毎日少しづつその中に何かを積んでいくようなものなのだろうと思い当たった。
なるほど。流れていくイメージとは随分違う。
それで、いくつかのことが納得できた。
油絵はなんで全部を埋め尽くすのか。西洋音楽はなぜ何重にも音で埋め尽くすのか。庭で水を扱う時は、なぜ噴水なのか。生きていくということが、大きな空間を、下から上へ積み上げて埋めていくことなのだからではないのか。
人生を時間的に捉えれば、「流れ」なので、何かを積むことは無い。何かがつながるときは、並べることになる。
端唄にも「○○づくし」といって、いろんなものを並べて唄うものがあるが、それもそうかもしれない。端唄の歌詞も、事の起こりから掘り起こして唄っているようなものはなく、流れの中のある一時を切りとって、流れのままに唄っているようなものが多い。
「積んで」いくことは、自分の周りがだんだん埋まっていくこと。「流れる」ことは、自分のまわりは、いつまでもぽっかり空いている。
ぽっかりした中を、さらさらと次から次へと流れていく。
そんな気分を、私は端唄に感じるのである。

2016-04-24 | Posted in ブログ, 邦楽Comments Closed 

 

第三回 東京教室研鑽会 6/4


東京教室有志による研鑽会。
唄、三味線以外に、締太鼓、小鼓、笛等、今回も色々と挑戦いたします。
会場は、国の登録有形文化財である「代々木能舞台」。初台にある屋敷内能舞台で、屋内の敷舞台は昭和8年、中庭の本舞台は昭和25年の建築です。今回の研鑽会は敷舞台で演奏いたします。
ちょっと三味線を聴いてみたい方、邦楽にご興味のある方、能舞台を見てみたい方、初夏の一日、お気軽にお越しください。
皆様のご来場を心よりお待ちしております。

・日 時 平成28年6月4日(土) 開場 14時 開演 14時半
・場 所 代々木能舞台
渋谷区代々木4-36-14
http://www.yoyoginoubutai.com/
・入場料 無料
・主 催 朝川会
・お問い合わせ お問い合わせフォームよりご連絡ください。

2016-04-19 | Posted in ブログ, 朝川会Comments Closed 

 

特養施設「穂波の里」で演奏しました

4/9(日)、朝川会新潟教室有志で、新潟市西区の特別養護老人ホーム「穂波の里」にボランティア演奏に行きました。
当日は、桜もちょうど満開で、暖かな気持ちのよい日。「梅は咲いたか」「さのさ」などお馴染みの端唄を、三味線に太鼓でにぎやかに演奏。皆さんには、一緒に口ずさんでいただいたり、手拍子をいただいたりと、楽しい時間を過ごしました。
「ぜひ、また、来てください」「秋には、こちらの施設にも」と、施設の方にもお声をかけていただき、次の機会も近そうです。
朝川会のボランティア演奏の輪も、広がっています。

2016-04-17 | Posted in ブログ, 朝川会Comments Closed 

 

土の中

庭はいろんな水仙が花盛り。ほんわりと花の香りが漂っている。

家庭菜園の本では、よく土作りが大事だと書いてある。特に、土の中の微生物の状態が土作りを左右するらしい。
適度に栄養があり、通気もよく、水はけもよくと良い条件が揃うと、土の中の微生物がよく働いて、棒を指すと1m以上もスーっともぐるようなふかふかの土ができるのだそうだ。我が家の畑では、なかなかそうはいかない。そういう土は、土の中も暖かく、微生物の働きによって生じる香りや味があるらしい。
そういえば、畑をやっている叔母が、土を触って温度を確かめたり、土を舐めたりしているのを見たことがある。あれは、微生物の働きをみていたのかもしれない。
そうやってふかふかになった土は、たくさんの微生物たちが絶妙のバランスで生きている状態だという。
ところが、化学肥料を使ったり、栄養をやりすぎたり、消毒など薬品を使用したりすると、微生物たちが死んでしまったり、少なくなってしまったりして、バランスが崩れてしまうのだそうだ。そうなると、野菜にとって悪い働きをする微生物が増えてしまい、野菜に虫がついたり、病気になったりする。そこでますます薬を使ったり、消毒などをしてしまうと、ますます状態が悪くなり、悪循環にはなるのだそうだ。
ここまで考えて、ふと思った。これって、身体の中と一緒じゃないのかな。きっと。
よかれと思って足して悪化したり、悪くなったのは、どこかに悪いヤツがいるせいだと、敵を探し出して、やっつけても良くならなかったり。今、健康になることって、そんなことをしているのではないかしら。
血眼になって、敵を探しているけれど、本当は敵じゃなくて、バランスが崩れただけじゃないのだろうか。
土の中には、大きいものから小さいものまで、たくさんの生き物がいる。善悪、敵味方なんて、本当は無いのではないかしら。

2016-04-15 | Posted in ブログ, 自然Comments Closed 

 

AEON新潟南の発表会に出演 4/24 

AEON新潟南にあるカルチャースクール「JEUGUA」の端唄三味線教室のメンバーが、カルチャースクールの発表会「Spring フェスティバル」に出演します。
他にも、フラダンスなどの踊り、楽器演奏など、様々なジャンルの教室の発表があります。
お時間ございましたら、ぜひお越しください。端唄三味線は、トップバッターです!

**Springフェスティバル**

・日 時  4/24 (日) 10:00~15:00
       朝川会のメンバーは10時に出演します!

・場 所  イオンモール新潟南1F マリンコート

2016-04-13 | Posted in お知らせ, ブログ, 朝川会Comments Closed 

 

庭は皆の通り道

今年は椿がきれいだ。黒椿が、たくさん咲いた。

子供の頃は、よく近所の人が庭を通っていた。理由は簡単。私の家の奥に住んでいる人は、ウチの庭を通った方が近道だからだ。
「どうもね」「おばんなりました」などと、一言交わしながら、軽く会釈をして通っていく。こちらが庭先にいたりすると、そのまま一緒に立ち話をしたり、縁側に座ってお茶を飲んだりしていた。
これは私の集落に限ったことではなく、母の実家でもそうだったから、どこでもそうだったのだろう。お互いの庭が、半ば公共的なスペースだったような気がする。
その時に垣間見えるお互いのプライベートな事々も、見ないような見たようなふりをしながら、なんとなく暮らしている。
近所の犬も猫も、鶏も歩いていた。よその犬や猫もかわいがっていたし、食べ物もあげていた。
今思えば、子どもの頃は、個人同士も、家同士も、人間と他の生き物の間も、境がボワーっとしていた
今はさすがに、他人の家の庭を近道にと通る人はいないし、犬も猫も鶏も放し飼いにはなっていない。
けれど、キジは相変わらず、縄張りチェックのため、毎日庭を歩き回っている。もっともキジから見れば、自分の縄張りに、人間が住んでいるということになるけれども。
この庭は一体誰のものだろう、そうやって考えると、今でもボワーっとしてしまう。

2016-04-12 | Posted in つれづれ, ブログ, 昔の生活Comments Closed 

 

1 29 30 31 32 33 34 35 36 37 44