「積む」と「流れる」

先日、夕暮れがとてもきれいだった。透明感のある空気は、心まで透き通るようだった。

先日、本を読んでいたら、「日本人が人生というものを考えるときにどちらかというと時間的に考える。ヨーロッパ人はどちらかというと、空間的な思考をするかもしれません」とあった。そして、「日本人は時間的に考えて、人生を旅するというところがある」と書いてあった。語っているのは、武満徹である。
これを読んでびっくりした。私は、人生は時間的にしか考えたことがなかった。「月日は百代の過客にして」ではないが、月日は一本の川のように流れていくイメージしか持ったことがなかった。
「人生が空間的とは、どういうことか」。しばし、考えた。
たぶんそれは、人生が大きな部屋のようなもので、生きて行くということは、毎日少しづつその中に何かを積んでいくようなものなのだろうと思い当たった。
なるほど。流れていくイメージとは随分違う。
それで、いくつかのことが納得できた。
油絵はなんで全部を埋め尽くすのか。西洋音楽はなぜ何重にも音で埋め尽くすのか。庭で水を扱う時は、なぜ噴水なのか。生きていくということが、大きな空間を、下から上へ積み上げて埋めていくことなのだからではないのか。
人生を時間的に捉えれば、「流れ」なので、何かを積むことは無い。何かがつながるときは、並べることになる。
端唄にも「○○づくし」といって、いろんなものを並べて唄うものがあるが、それもそうかもしれない。端唄の歌詞も、事の起こりから掘り起こして唄っているようなものはなく、流れの中のある一時を切りとって、流れのままに唄っているようなものが多い。
「積んで」いくことは、自分の周りがだんだん埋まっていくこと。「流れる」ことは、自分のまわりは、いつまでもぽっかり空いている。
ぽっかりした中を、さらさらと次から次へと流れていく。
そんな気分を、私は端唄に感じるのである。

2016-04-24 | Posted in ブログ, 邦楽Comments Closed 

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