動体視力


先日、新聞である人の生い立ちの記を読んだ。高校時代の思い出を語る中で、「運動部の部活を続ける一方で日本の文学、世界の文学をほぼ読了し」というくだりがあった。そのまま読み進めようとして、なんだか引っかかった。「日本の文学、世界の文学をほぼ読了?」。この文の前に、たとえば、「学校の図書館の」とか「父の本棚の」とかあれば、話はわかるが、何も無い。ということは、そのままとるしかない。
世界の文学をほぼ読了。うらやましい話だ。
私は、日本や欧米の文学なら、少しはわかるが、中近東のお話なんて、アラビアンナイト位しか思いつかない。世界には、私がまだまだ知らない、面白い文学がゴマンとあるだろう。
しかし、ちょっと待て。高校生活の間に、日本と世界の文学をほぼ読了などということは、ありえない。それに、文学というものは、日々生まれているわけで、それに追いつけるはずもない。
この方は、政治家で学者のようであったが、どうしてこのような文章になったのだろう。
ただ、さらっと読むだけなら、「この人は、文武両道で、すごい人なんだなあ」ぐらいの印象で読み進んでしまうかもしれない。そして、無意識に、「こんなすごいことは、私にはできない。やっぱり、政治家で学者で、すごい人なんだ」という印象が刷り込まれてしまうかもしれないのである。
こういうことが、結構こわい。
この世が平等だ、頑張る皆様の味方だ、というようなふりをしていて、その奥では、決してお前はこちらには来られない、ここには越えられない透明の天井があるのだ、というような刷り込みをしようということは、まま、ある。
江戸っ子は、こういうはったりが大嫌いだ。こういう時は、茶化したおす。
「なんでも、高校生のうちに、日本と世界の文学をほぼ読んじゃったヤツがいるんだってねえ」
「そいつぁすごいね。世界には、200くらいの国があるんだぜ。一日1冊読んでも、200日だ。どうやって読んだのかねえ」
「そりゃもう、本をバラバラ~ってやれば、もう頭に入っちゃうのさ。そのくらいじゃなけりゃ、間に合わないぜ」
「頭のいいヤツっての、よっぽど動体視力がいいんだな」
とか言うかもしれない。

2016-02-07 | Posted in つれづれ, ブログNo Comments » 

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