不揃いな南瓜


今年は、たくさん南瓜がとれた。母が廊下にずらりと並べていた。
小さいのは「坊ちゃん南瓜」、細長いのは「糸かぼちゃ」。大きいのは、なんだろう。
これが妙にかわいい。
「いやー、今年は大変な日照りでしたなあ」
「私なんぞは、畑の端でしたから、日当たりがガンガンな上、熱い風も通るし、本当に大変でした」
「私は、まだ葉の中に隠れていましたから、少しは良かったですが、それにしても、雨が欲しかったですねえ」
「本当にねえ。無事に実って一安心ですよ。後は美味しく食べてもらわないと」
「そうそう、しまっておかれて、腐っちゃうのはいやですよねえ」
なんだか会話が聞こえてきそうである。
「南瓜」、と一括りに言っても、一人ひとりに見えてしまう。
スーパーで南瓜を見ても、一人ひとりのようには見えない。大きさや形が揃っているということもあるのだろうが、「南瓜」というコーナーに並べられているその状態で、すでに、個個の顔を離れ、「南瓜」という一山の商品に見えてしまう。
「南瓜」という一山なので、もしも、「ここから10個はAスーパー、5個は○○八百屋」などと、より分けて言っても、「あ、あの子はあっちか、この子は近所だな」などとは、思わないだろう、きっと。「南瓜が売れた」というだけか。
もしかしたら、「国家」とか「国民」とかの一山感覚になると、同じことがおきるのではないか、ふとそんな気がした。
我が家の南瓜は不揃いだけど、それぞれにお話ができそうな南瓜である。
腐らせないように、大事にせっせと食べよう。それぞれに、「いただきます」。

2015-08-16 | Posted in つれづれ, ブログNo Comments » 

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