野菜は廻る
私がまだ小さい頃、毎週、村の寄り合いが行われていたような気がする。
周りがほとんど農家なので、農作業の打合せなどが多かったのだと思うが、それ以外にも、お祭りや、地域の行事やら色々とあったのだろう。ゆっくりと話し合いをしていたような気がする。そして、お酒を飲みながら、村の昔話や、地域の人々の近況などの情報交換をしていたのだろう。近所の人たちが、どこの家の誰はどこから嫁に来た、とか、どことどこは親類だとかいうことに、とても詳しいのに驚いた。それも何代も前からの話なのだ。
多分、みんなどこかで繋がっているよね、という気がしてくる。
どこの誰が具合が良くないとかいう情報も、重要だ。さりげなく知っていなければいけないし、お見舞いに行かなければいけないし。お見舞いに来てもらうことが大変で、病院に行っていることを、なるべく悟られないように、ということもあったかもしれない。
旅行のお土産なども、たくさん行き来していた。毎日の野菜のおすそ分けなど、もっと頻繁である。
りっぱな野菜を、「ありもんだから」と言って、置いていく。「ありもん」、家にあるものだから、という意味だ。豊かだなあと思う
「この前は、お宅から○○をいただいたから」から、などと言いながら、色々と届け合う。
皆さんに共通している感じは、「私は相手よりも、たくさんもらっている」という感覚だ。だから、常にお返ししなければと思って行動している。こうして、ぐるぐるとプレゼントが続いていくのだと思う。
我が家には、江戸時代の先祖が書いた書類がたくさんあるが、法事やお祝い事の時に、誰から何をいただいたかの一覧がたくさんある。いもだったり、大根だったり。これはいただいたリストであり、いつかお返ししなければいけないリストだ。これが、この地域で生活いく上では、非常に大切な書付だったと思われる。和紙で綴った帳面に、毛筆で細かい字でびっしり書いてある。
いつも自分は足りないと思っていると、贈り物の輪は、途切れるか、始まらないが、いつももらいすぎていると思うと、永遠にその輪は、続くのだろうな。
はて、私が止めている流れはないだろうか?落ち着いて、点検しなければ。