大きいものは

隣の家は、ざくろが大豊作だ。

先日、浅草へ行った。お気に入りの大衆食堂で、何人かで軽く一杯飲みながらの食事の帰り道、ふと目の前に、ライトアップされたスカイツリーが見えた。
「こう見ると、あんまり大きい感じがしないですよね」と連れが言う。
確かに、建物の間から見えるスカイツリーは、距離感も大きさも、よくわからない感じもする。
「でも、高尾山と同じ位なんですよね」と皆でながめた。
高尾山。私が以前山登りをやっていた時、休日によくトレーニングに行った。あの頃は体力があったので、高尾山口駅からノンストップで45分位で頂上についた。その高さに、エレベーターであっという間に着く。不思議な感じだ。
山に登る時は、登山口ではるか山頂を見上げ、「どのくらいであそこまでいけるのかなあ」と思ったものだ。山は大きく、森林は深く、花や草が無数に茂り、沢の音が聞こえ、いろんな鳥が鳴いていた。沢山の知らないもの、大きなものに囲まれている感じがした。
子供の頃だって、田んぼや川や山や、人間よりは大きなものに囲まれていた。
「大きなもの」は、「自然のもの」だった。
今、東京を歩いていると、山は見えない、川もほとんど見ない。あっても両岸をコンクリートで覆われたおとなしい川だ。木も、庭か街路樹だ。
大きなものといえば、人間が作ったものだ。高層ビル、競技場、高尾山と同じくらいの高さのスカイツリーもだ。
大きなものは、すごいもの、そしてそれを作りだしたものは、すごいもの、と単純に子供の頃は考えていたから、自然はすごいなと思っていた。
目の前にある大きなものが、人間の作ったものばかりとなれば、それを作った人間がすごいもの、と単純に刷り込まれるのだろうか。
「すごいもの」、になりたくて、「大きなもの」を作るのだろうか。

2015-10-06 | Posted in つれづれ, ブログNo Comments » 

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