コッパーを壊す

毎日暑い。庭には睡蓮が咲いている。
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北米北西海岸に住む先住民が行っていた「ポトラッチ」という贈り物の慣行がある。ポトラッチとは、大掛かりな規模で行われる「贈与の祭り」だ。今は大きく形が崩れてしまっているが、昔は盛大に行われていたそうだ。新しく首長に選ばれた人のお披露目や、重要な人物の子供の結婚の儀式にあわせて行われるお祭りで、村の首長が別の村の首長とそこの主要な住人を、大宴会に招待して、お客様にたくさんの贈り物をするのだそうだ。招かれた人たちは、別の機会にお返しをするために、自分たちが主催するポトラッチに前に招待してくれた村の人たちを呼んで、たくさんの贈り物をする。その贈り物の中でも最上級と考えられていたものは、銅でできた「コッパー」という板なのだそうだ。
ポトラッチの際に、しばしば、貴重品のコッパーが破壊され、招待客に破片が配られる。貴重なものにもかかわらず、この破片をもらった方は、海に投げ入れて、あともかえりみないのだという。海に沈んだ破片は、そのあと、拾いあげられて、改めてコッパーに作り直される。そうすると、前よりもコッパーの価値はぐんと増すという。(以上、カイエ・ソバージュⅢ 愛と経済のロゴス 中沢新一 著 より)
贈り物、というと、今回は誰だから、どのくらいの、というような計算が自ずから浮かぶわけなのだが、そんな考えはせずに、とにかく大量のものを贈る。更に、ものすごく価値もあるものを、惜しげもなく、壊してしまう。そして、そのことにまったく頓着しない。ケチケチしないことが、モノの価値を増殖させるということなのだと思う。

そんなことを考えていたら、落語の「文七元結」という話を思いだしてしまった。
腕はいいのに博打好きの左官の長兵衛は、仕事もせずに借金まみれ。大晦日に博打ですってんてん。そんなお父さんに立ち直ってほしくて、親には内緒で、娘が吉原に身を売ってしまう。吉原の女将は、来年の大晦日までは身の回りの世話をさせているが、大晦日までにお金を返せなかったら、女郎として店に出すといい、50両のお金を貸してくれる。
ところが、その帰り道に、店のお金50両をすられたので、責任をとって身投げするという、奉公人の文七に橋の上で出会ってしまう。必死にとめる長兵衛は、「娘は身を売ってくれた50両。これで命が助かるなら」と、懐にあった50両を押し付けて、逃げ帰ってしまう。文七がお店に帰ると、すられたと思った50両は、忘れてきただけで、すでにお店に届いていた。そこで事の顛末を話す。翌日、お店の主人が長兵衛の元を訪れ、50両を返し、おまけに娘の身請けをしてくれていて、家まで連れてきてくれる。後に、文七と娘は夫婦となり、暖簾分けをしてもらって店をひらくという、めでたしめでたしの人情噺である。
この話には、一番大事なものを、惜しげもなく、こわすというシーンが出てくる。
娘は、借金を返済して、父に改心して欲しくて、自分の大事な娘ざかりの人生を、吉原に売ってしまう。ここでまずコッパーが壊される。それに対し、吉原の女将が、一年間は女郎勤めはさせないと約束し、大金を貸してくれる。コッパーを壊したことで良いことがおこる。
その帰り道に、身投げをしようとしている若い奉公人に会う。命が助かるならと、娘が身を売った大事な大事なお金を、なんの見返りも求めず、名も名乗らず、渡してしまう。
ここでも大きなコッパーが壊される。
そして、その後は、お金は戻る、娘は戻る。娘は幸せになる、家は栄える。とハッピーエンドで終わる。
これはまさに、コッパーを壊すと、価値が増殖する話なのではないか。

旧石器時代の人類から続く、アメリカインディアンやアイヌなどのモンゴロイドに残る神話的思考が、江戸時代にも鮮やかに花開いている。そんな気がしたのだった。
ものすごく大事なものを、手から離すと価値が増殖する。このことは、モノを大事にするなと、言っている訳ではもちろんない。コッパーを壊すことで、より大きな力を生むという、そのことを、この人情話は、よく表現しているのではないか。
大切なものを、物惜しみしないことで、より大きな価値を生む。
この時に気をつけなければいけないのは、なんのために物惜しみをしないのかということであり、より大きな価値とは何かを、自分で考えることである。ここを間違えれば、大変なことになる。
コッパーを正しく壊すことは、積極的正しい価値増殖主義である。

2015-07-30 | Posted in ブログ, 江戸No Comments » 

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