ごちそう


嬉しいことがある時、人が集まるとき、そんな時は、ごちそうを用意する。用意している時は楽しく、いただく時は、うれしい、そして美味しい。そういうものがごちそうだ。
頭のごちそうは、知識なのだと思う。知識を手に入れ、それらをつなぎ合わせたり、新しい関係を見出したりすることは、とても楽しい。
身体のごちそうは、運動。そして、栄養、休養。身体を動かした後の心地よさ、疲れた身体に染み入るような食事の美味しさ、お風呂に入って体がリラックスする気持ちよさ。
精神のごちそうは、愛情だ。信頼しあえる人と気持ちを通わせることは、この上ない喜びだ。
河合隼雄さんは、「たましい」ということをよく話している。「たましい」というものが、あるという前提で話をした方が、いろいろなことがよくわかるというのだ。
人の頭脳や身体や精神を、機械的なものだと理解して話をすすめていくと、どうしてもそれだけでは、すっきりしない部分がでてしまう。
身体を部品のように扱った時、精神も理屈で説明できるかのように思った時、そうした時に、何か痛むものがある。それが、「たましい」ではないのだろうか。
月には兎はいない。でも、いたら楽しい。花や鳥は話をしない。けど、もしかしたら、人と話ができるかもしれない。そう思っただけで、なんだか世の中は、少し楽しく、豊かになる気がしないだろうか。
「たましい」のごちそうは、物語だ。
植物や動物と話をしたり、太陽や風が話しかけたりというお話しを、子供の頃はたくさん聞いていたはずだ。それが当たり前のように。
村上春樹さんは、生き生きとした物語を書きたいと言っていた。
それは、「たましい」のごちそうとなる小説ということではないかと思う。

2015-11-25 | Posted in つれづれ, ブログNo Comments » 

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