気配

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先日、テレビを見ていたら、農作業を手伝えば宿泊費と食費はただになるという農家民宿が出ていた。宿泊の部屋は、一階からみると吹き抜けになっている二階で、障子だけでしきられている。おしゃべりの声や、動く音がなんとなく聞こえる。ゴツンというぶつかる音が聞こえると、「大丈夫?」などと声がかけられる。
この位がちょうどいいと、農家の方が話していた。
私も、密閉された状態は、どちらかといえば嫌いだ。家の二階にいても、ドアを開けておく。そうすれば、下の様子がなんとなくわかるし、たとえば、ドカンなどと転ぶ音が聞こえたらすぐに降りてもいける。自分のことにも集中できるし、気配を感じれば、そちらにいける。そういう状態が好きだ。
見えないけれども、音が聞こえるということは、気配を感じているということ。なんとなく気にして、気を配ることができるということだ。決して監視しているわけではない。監視するつもりならば、見えなければいけないし、逆に監視しようとしている人からの自由が得たければ、ドアをがっちりしめて、音も視覚も遮断しなければならない。
昔読んだ女性の随筆に、夏は家中のふすまをはずして、風が吹き抜けるようにするが、秋になると襖を入れ、それぞれがそれぞれの部屋に入り、それぞれの事をしている。その感じが、秋が来たという感じになるとあった。ご本人は、夏の着物をしまい、着物に綿を入れたりと冬支度にかかる。襖で仕切られているだけなので、静かながらそこはかとなく、家族がしていることがわかるようだという。
気配とは、音の世界なのかもしれない。
「秋深し 隣は何を する人ぞ」
夏は、開けっ放しになり、通りからでも、家の中が見えたような時代。秋は、障子や襖で隔てられる。けど、音は遮断されていない。なんとなく耳を澄ませている感じがする。
日本家屋は気配の家だ。気配って、気配りって書くんだなと、書いていて気がついた。

2015-12-01 | Posted in つれづれ, ブログNo Comments » 

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