多様性
庭の白玉椿がきれいだ。
生物の多様性とか、文化の多様性とか、多様であるということが、大事だという話が多い。
魚や昆虫の種類が多いとか、花や木の種類が多いとか、土地が変わると文化が変わったり、多様ということは豊かということだ。
一つしかなければ、それの意味がわからないこともあるだろう。黒しかなかったら、色はわからない。冷たいものがなければ、暖かいという意味がわからない。
二つしかなければ、どちらかしかない。もし、どちらかを良しとすれば、どちらかがダメになっていまう。優劣をつけてしまえば、優と劣しかない。
多様ならば、どれもどれも、それなりに良しだ。
一人の人の中にも、いろいろある。
とても子供っぽい部分や、私は女だけど男っぽい部分もあるし、人には言えないような変なことを考えている時もある。色々だ。
「もう中学生なんだから」とか「女の子なんだから」とか、言われて人は育っていくが、その都度、「なんだから」と言われたもの以外のは、捨てたり、忘れたりしなければならないと思いがちな気がする。
でも捨ててはいけないし、捨てたつもりでいても、ちゃんとある。
成長していくということは、捨てていくことではなく、積み重なっていくことなのかなあと思う。忘れてなんかいない。下の層にとってあるだけだ。そして、それでいいんだと思う。その層の重なりが、多様なんだと思う。
自然界も多様性がいいように、一人の人間も多様でいいのだと思う。子供っぽい私、男っぽい私、大人の女としての私、、、。
卒論では、実存哲学者のハンナ・アレントについて書いた。「絶対的真理は、多様性を認めない。絶対的真理があるところには、自由は無い」ということうをアレントは言っている。一人の人間だって、この人はこういう人だとか、私はこうあるべきだ、というような絶対的な姿など無いのではないだろうか。
実存哲学を学んだ端唄の師匠、これも私の多様性ということで。