人生の「攻め方」

先日、新幹線の下の階から、ふと窓を見ると空が赤い。あわててデッキへ駆けあがる。ものすごく赤い夕焼けだ。赤が少しづつ消えて暗くなるまで、ずっとデッキで見ていた。秋だなあ。

昭和初期に東京に住んだイギリス人女性の書いた日本印象記を読んだ。その頃の東京の様子や庶民の姿がわかる。その中で、「人生の「攻め方」」という言葉があった。
「西洋人の人生の「攻め方」は、日本人の性には合わない。「攻め方」という言葉自体、西洋人と日本人の生き方の違いを見事に示している」と、書いてあった。
そうか。西洋人にとって、人生は、「攻める」ものだったんだ。
著者によれば、「人生が彼ら(日本人)の中や傍らを流れていきます。彼らはあせって人生を迎え入れたり、人生の舵を取るようなことはしません。流れが運んでくるものを受け取るだけです。流れが運んでくるものが富や高い地位であっても、驚いたことに彼らは何気なく利用するだけです」とある。
「攻める」と「流れる」。そういえば、日本庭園では水は流れるが、西洋の庭園では、噴水だ。
「その後も依然として地味な生活を好みますし、他の国民のように気取ることもないので、たとえ運が傾いたとしても私たちのようにショックを受けることはありません。高官や金持ちの質素な暮らしと、身分の低い者の暮らしは大して違いません。どちらも優雅で無欲です」と続く。
この本が書かれてから、約80年。人生は「攻める」もの、に、今は違和感を覚えない人も多いだろう。でも、ほんの少し前まで、日本人の人生は「流れる」ものだった。
「攻める」人生には、武器も鎧もいるだろう。それから戦略を立て、士気を鼓舞して進むことも。「流れる」人生には、何が必要だろう。きっと、流れを知り、流れに逆らわないようにすることだ。力を抜いて自然体でいることかなあ。
私は、どうだろう。やはり「流れる」だ。だって、三味線は流れるもの、端唄は攻める音楽じゃないから。

2017-09-12 | Posted in つれづれ, ブログComments Closed 

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