自由な端唄
暑い。暑い。一年で一番暑い頃だ。木陰で朝顔が咲いていた。
端唄を始めて、洋楽との違いに驚いたことは、色々ある。
中でも、メロディが固定されていないことには驚いた。同じ曲でも、人によってメロディが変わることもある。更に、歌詞が変わると、メロディが変わってしまうのだ。
たとえば、「からかさの」という歌のメロディがある。この部分を、たとえば女性で声が高くてきれいで、そこを聞かせたいと思えば、「ドミミシシ(ドとミは、シより上の音)」というメロディで唄う。ところが男性でそこまで高い音ではない方を好む場合は、「ラシシミシ(この場合のミは、シより下の音)」というメロディで唄う。
これにはかなりびっくりした。クラシック音樂のピアノを子どもの頃に習っていた私は、曲のメロディは一音も変わることの無いもの。メロディが固定で、そこに歌詞が乗るものと思っていたのだ。
端唄のこれはどういうことか?
「どういう時に、どのような法則が?」おそるおそる聞いたものの、「好きに唄えばよい」との答えだった。ただ、「なまってはいけない。その言葉がその言葉に聞こえないように唄うのはよくない」とのことだった。
つまり、まず、言葉があって、唄がある。おおまかなメロディはあるが、その言葉がその言葉に聞こえれば、細部は自由であるということである。
「からかさ」が、「か」と「らかさ」と聞こえれば、言葉として意味はなさないが、「からかさ」と聞こえ、曲全体を壊さなければ、ある程度の自由度があるということである。
「それじゃあ、どうしたらいいんだ?」かなり迷ったが、迷っていてもしかたがないので、ひたすら聞いたり、唄ったり、弾いたりした。
そうすると、「うん、これが好き」とか、「今日はこっちの気分」とか、だんだん自然に思うようになった。絶対的な一つの見本がなくても、なんでもないことだったのだ。
わかってしまえば、あっけらかんとしたものだった。
つまり、誰かのとか、どれかの、に自分を当てはめてしまわなくても良いということだ。
これは、相当自由で楽しい。
更に、端唄には、替え唄が多いが、歌詞が変わるということは、言葉が変わるということで、更に更に、メロディが変わってしまう。
先ほどの「からかさの」が、「雪を」になると、たとえば「ゆきいいを(ラシラミシ(ミはシより低い音)」になる。もちろん、これと違ったメロディで唄ってもよいし、その日の気分で変えても良い。続けて唄う別の歌詞とのバランスもあるし、しっとり唄いたいのか、にぎやかにしたいのかにもよる。そしてそれは、自分が決めて良い。
こんなに自由で楽しい音楽があったのかと、お腹の底からゆかいな気分になった。
朝川会の「楽しい端唄」は、ここから始まっている。