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魚さかなサカナ

私の家は、ピアノ教室をしていて、近所の女の子が習いに来ている。ピアノが聞こえたり、三味線が聞こえたり、我が家はにぎやかな家だ。母はお花を教えている。さながら地域のカルチャーセンターか。
先日、ピアノのお稽古に来たSちゃん。いつもは「こんにちは」だけだが、まだ先生が来ていない。話しかけてみよう。
「まだ夏休み?」「そうです」「宿題は終わったの?」「自由研究がまだです」
聞けば、魚の図鑑を見ながら20種類位を絵に書いて、絵日記のようにしてまとめるのだという。「魚ってみんな似ているでしょ。何を書くの?」そう聞いた私は、すでに魚屋さんに並ぶ魚しか頭に無かったのだ。反省。
「エイ」「それは知っている。四角いのね。」それから「シュモクザメ」「それって、何?」「頭がトンカチみたいな形をしている」「ああ、あれね。こんなのね。」と身振り手振り。
それから、「金目鯛」「目の大きなのね」更にわからない長い名前の魚。
「魚が好きなんだね」と聞くと「うん」と頷く。10月になったら大阪に連れて行ってもらえる。そこには日本で一番大きい水族館があるんだそうだ。
実は私は、子供の頃、大の図鑑好きだった。世界名作全集と同じく図鑑もシリーズであった。「植物」「魚貝」「鳥類」「動物」「昆虫」「地球」「人体」などなど、これまた飽かず眺めていた。「世界で一番大きな花」、とか、「巨大なクラゲ」とかにわくわくしたり、庭で見た鳥や虫の名前を調べたりしていた。不思議な空想にふけることができるのと、身近なものたちの名前を覚えられる楽しさで、図鑑はいつまでも眺めていることができた。
図鑑シリーズは、まだ、私の部屋にある。Sちゃんと話した日の夜、久しぶりに「魚」の図鑑を広げてみた。近海の魚、深海の魚、淡水の魚。日頃食卓にあがるものから、見たこともないものまで。
あれれ、当たり前のことかもしれないが、全部、絵なのである。写真は表紙だけだ。「川や湖・池などの魚」のページには上流から河口までの俯瞰した絵が、「岸辺や潮溜まりの魚貝」のページには、砂浜や水中の岩や海藻の絵とともに、沢山の魚が、絵で散りばめられている。は~~、絵だったんだ。今更ながら驚く。大人になってから買ったポケット図鑑は全部写真だったからなあ。
リアルすぎず、デフォルメもされていない魚がびっしり詰まっている絵。自分もその中で遊んでいる気がした。これが写真だったら、自分の仲間、的な親しみをもっただろうか。図鑑って、いいなあ。
母に聞いたら、Sちゃんの祖母は、「この子は好きなものがころころ変わって、気が散ってよくない」とこぼしていたそうだが、そんなことはない。好きなものはどんどん変わったっていいし、目の前のものには、どんどん興味を持つのが、いいんじゃないかなと思う。
思いっきり、大好きな魚の絵を描いて、大阪で沢山の本物の魚を見てほしい。
Sちゃん、また、魚の話をしようね。もちろん魚じゃないものが好きになっていてもいいよ!

2015-08-28 | Posted in つれづれ, ブログNo Comments » 

 

目は口ほどに


ヒオウギという花が、庭にたくさん咲いている。植えたのか、自然に増えたのかわからないが、あちこちに咲いている。名前の通り、葉が扇の様に広がって、8月になると花が咲く。
ありふれた花のようだが、よく見るととてもきれいだ。
花びらにまだらに細かい模様がある。なんでこんなに細かい細工をしたんだろうというくらい、実に繊細な模様だ。じっと見ていると不思議な気がする。私は確かに見ているのだが、なんだか見られているような気もする。
人間の目の機能は、植物の光を感じる機能を取り入れたことから始まるらしい。光を感知することが、見ることの始まりだ。「見る」、という大事なこと。これも、植物からのいただきものだったのだ。植物も、もしかしたら何かを見ているのかもしれない。
目は口ほどにものを言うという。口でいうものは言葉だが、目でいうものは、言葉ではない別のメッセージだ。
じっと花を見ていると、何らかの会話があるような気がしてくる。
まだらな模様のある花、ホトドギスも咲き始めた。こちらは、複雑な雌しべ、雄しべが、造形的な美しさだ。カメラでアップ。

見ている私と、何かを話しかけてくるホトトギス。そんな気がする。
秋はすぐそこだ。

2015-08-25 | Posted in ブログ, 自然No Comments » 

 

ホームは美しい


月に何回も新潟と東京を往復しているので、上越新幹線にはよく乗る。いつも自由席だ。北陸新幹線ができてからは、乗る人が減ったので、ぎりぎりでも十分座れるのだが、早めに行って、並んで待っている。キヨスクと駅弁売り場が背中合わせになっているその境目あたりが、いつもの場所である。
ホームで働いている人を見るのが好きなのだ。9時台の新幹線に乗る時は、ちょうど駅弁を補充に来る時間だ。大きな台車に山と駅弁を積んで、お兄さんがやってくる。何種類もの駅弁を順番にどんどん運びこんでいく。大量の駅弁がよどみない素早さで台車から無くなっていく様子は、爽快だ。
一番好きなのは、列車の中をお掃除する人たちの仕事ぶりだ。
列車がホームに入る前は、一列に線路の方を向いて整列している。列車がホームに入ってくると、皆で列車にお辞儀をする。これが揃っていて、とてもきれいだ。
それから、ゴミ袋を広げて、降りてくるお客さんを迎える。その間、チーフらしき人は、ホームを歩きながら、忘れ物がないか車中を覗いてチェックしている。
客の降車後はすばやく乗り込み、無駄のないスピーディな動きで、列車の清掃を始める。ヘッドセットのマイクで、他所との連携を取りながら、清掃終了。終わるとホームに一列に並んで、待っているお客様の列に向かって一礼する。この動きも揃っている。とても気持ちがいい。美しい。
私は、必ず清掃チームに向かって、お辞儀をかえす。こんなことをするのは、私だけだが。
チームはさっそうと、次の仕事に向かっていく。揃いの帽子には、季節の飾りがついている。8月は朝顔だったかな。秋には紅葉になる。これもいいなと思っている。
先日、テレビを見ていたら、フィンランドの人が京都に勉強に来ていた時に、お母さんを亡くしてしまい、とても悲しかったが、日本には美しいものがたくさん身の回りにあり、とても慰められた。お母さんを亡くした悲しみから立ち直れたのも、日本の美しいもののお陰だと言っていた。
美しいということは力だ。美しいもので人は癒されるとすれば、美しいものを増やすことは、積極的平和主義なのかもしれない。
数学の授業で、「複素数」を初めて習った時、「これは面白い」と思った。家に帰り、高校の数学教師だった父に、「今日、複素数を習ったよ。面白いね」と報告したら、父は、「複素数か。複素数は美しいだろう」と嬉しそうに応えてくれた。
私は数学が好きだった。それは、美しいからだったかもしれない。
美しいものを増やしたい。物でも時間でも考えでも。

2015-08-22 | Posted in つれづれ, ブログNo Comments » 

 

瓦の雨


久しぶりの雨である。猛暑続きだっただけに、なんだかほっとする。庭の木々も嬉しそうだ。

父は全集好きだった。小さい頃は、「少年少女のための世界文学全集」を買ってもらい、何度も読んでいた。美術書もあった。世界の名画全集、日本の名画全集、浮世絵全集。近現代の画家だけを集めたものもあった。日本の名宝全集のような工芸品を集めたものもあった。私は子供の頃、片っ端から、時間があると読んでいた。どれもこれも好きだった。
ある日、父が、「この絵が好きなんだ」と言って、見せてくれたのが、福田平八郎の「雨」だった。それは、瓦屋根のアップに、降り出した雨が点々と滲んでいる絵だった。
「これ?」、最初はよくわからなかったが、とても印象に残った絵だった。
屋根の上で遊ぶのが好きだった私は、陽にあたって乾いて暖かくなった瓦に、ポツポツと雨があたっていく、その感じが、絵を見ているうちに肌で分かった。
これは「水」の絵だ。
暖かい瓦にあたった雨は、すぐさまいくらかの水分は、ぽわっと蒸発していく。あたりはたちまち柔らかい湿気に包まれる。
日本は湿気が多い。空調の無かった時代は、湿気とともにある生活だ。
湿気の多い空気、湿気の多い自然環境、その中で演奏する邦楽は、湿度の多い空気をわたる音なんだろう。
そう考えると、邦楽は水の音楽ともいえるのかもしれない。
私は瓦が好きだ。濡れると、みずみずしく濃い色になり、土蔵の白壁に映える。
「雨」が好きな父は、なぜか家を建てる時に、一階の屋根を赤いトタン屋根にした。母は反対だったそうだが、父が押し切ったらしい。札幌生まれの父は、赤い屋根に郷愁があったのだろう。父はハイカラなものが好きだという印象だったが、思い返せば、本は日本の伝統美というものが多かった。憧れと郷愁。あの時代の日本人はそうなのかもしれない。
もし私が家を建てるとしたら、やはり瓦屋根の家かな。

2015-08-20 | Posted in つれづれ, ブログNo Comments » 

 

不揃いな南瓜


今年は、たくさん南瓜がとれた。母が廊下にずらりと並べていた。
小さいのは「坊ちゃん南瓜」、細長いのは「糸かぼちゃ」。大きいのは、なんだろう。
これが妙にかわいい。
「いやー、今年は大変な日照りでしたなあ」
「私なんぞは、畑の端でしたから、日当たりがガンガンな上、熱い風も通るし、本当に大変でした」
「私は、まだ葉の中に隠れていましたから、少しは良かったですが、それにしても、雨が欲しかったですねえ」
「本当にねえ。無事に実って一安心ですよ。後は美味しく食べてもらわないと」
「そうそう、しまっておかれて、腐っちゃうのはいやですよねえ」
なんだか会話が聞こえてきそうである。
「南瓜」、と一括りに言っても、一人ひとりに見えてしまう。
スーパーで南瓜を見ても、一人ひとりのようには見えない。大きさや形が揃っているということもあるのだろうが、「南瓜」というコーナーに並べられているその状態で、すでに、個個の顔を離れ、「南瓜」という一山の商品に見えてしまう。
「南瓜」という一山なので、もしも、「ここから10個はAスーパー、5個は○○八百屋」などと、より分けて言っても、「あ、あの子はあっちか、この子は近所だな」などとは、思わないだろう、きっと。「南瓜が売れた」というだけか。
もしかしたら、「国家」とか「国民」とかの一山感覚になると、同じことがおきるのではないか、ふとそんな気がした。
我が家の南瓜は不揃いだけど、それぞれにお話ができそうな南瓜である。
腐らせないように、大事にせっせと食べよう。それぞれに、「いただきます」。

2015-08-16 | Posted in つれづれ, ブログNo Comments » 

 

西湖


「西湖」というお菓子をいただいた。京都の和久傅のものだ。
蓮根菓子といって、蓮根の澱粉と和三盆で作るお菓子で、笹の葉で綺麗に包まれている。
冷やして食べると美味しい。
この食感が、なんとも面白い。
笹の葉をめくると、びよーんと笹の葉にへばり付くような感じがして、きれいにはがれ、笹の葉の真ん中に、てろーんといった感じで、黒い塊がある。
ぱくっと食べると、てろーんと剥がれて口に入り、柔らかく口の中でとろける。その柔らかさかげんが、また美味しいのだが、なんとも、脱力感たっぷりのお菓子だ。
このくらい、何も無い時は、脱力したいものだ。
私は、小学校の時から、肩こりだった。5年生の時に、授業中にあまりに肩が痛くなり、吐き気を覚える位だったことを、覚えている。その時に、着ていた毛糸のベストの色や編み方まで覚えているのだから、鮮明な記憶だ。
小学校に通い始めたばかりの頃は、学校から帰ると「胃が痛い」と言って、太田胃散を飲んでは寝ていたことも、よく覚えている。何に緊張していたのだろう。
大人になってからは、それほどひどい肩こりに悩まされたことはないが、もしかしたら肩こりの状態に慣れ、麻痺しただけなのかもしれない。
「西湖」を食べて、「そうだよね、これくらいてろーんとしたいよね」、と思ってしまった。ライオンだって、狩りをする以外は、でろーんとしているではないか。私なぞは、自転車をこいでいる時も、不必要に肩に力が入っていることがある。
無意味に身体に力が入っている時は、「西湖」を思い出そう。
あの、てろーんとした感じ。
あはは、美味しかった。

2015-08-13 | Posted in つれづれ, ブログNo Comments » 

 

新潟教室で暑気払い

恒例の朝川会新潟教室の暑気払いを8月8日に行った。
この日も、猛暑。暑い暑い。なるべく外には出たくなあい、という陽気だが、暑さをものともせず、元気な女性陣が13名集まった。
会場の「魚倉」さんは、紫竹にあるお弟子さんのKさんのお店。この度、立て替えてリニューアルオープンしたばかり。以前より駐車場も広くなり、黒い壁がシックな純和風建築。木の香り漂う店内は、個室、カウンター、そして奥には広いお座敷。床の間、欄間など純和風ながら、椅子席というモダンなインテリアである。
いつものように、目にも美しく、美味しいお料理。最初に出た焼きナスの寄せものは、目にも涼やかで、美味しかった。鮎の揚げものも、初めて食べたが、美味。もちろん他のお料理も、とても美味しい。
美味、美酒で、話にも花が咲く。お料理談義、芸事談義、はたまた人生談義、、、話題はつきない。あっと言う間に時間となる。
最後は全員で記念撮影。

床の間の立派な調度品の説明で、また盛り上がる。
いやー、素敵なお店でした。少人数から大勢まで、個室もあります。ランチもやっていますので、皆様ご贔屓に。
東京教室の暑気払いは、9月に屋形船ですよ~。

2015-08-10 | Posted in ブログ, 朝川会No Comments » 

 

はるなつあきふゆ

畑は夏野菜、真っ盛り。真っ赤に熟れたトマトは、本当に味が濃くて美味しい。
夏の日差しも一緒にまるごと食べている感じだ。

夏に比べ、冬は、寒くて、草木は枯れ、一番生命力に乏しい淋しい季節のような気がする。ところが、冬というのは、生命力を増やす、特別な季節だという。冬というのも、「ふゆ」、増やすという意味なのだ。
では、何を増やすのか。それは「タマ」という霊魂なのだそうだ。冬の寒い季節に、盛んに行われる冬のお祭りは、タマを増やすということらしい。タマが増えると、生命力がみなぎり、大地が元気になり、人間が幸せになるのだそうだ。面白いことに、アメリカ・インディアンにも、日本の冬のお祭りとそっくりな冬祭りがあるという。両方にあるということは、モンゴロイドがアメリカ大陸に渡る前からあるお祭りということなんだろう。なんだかすごい。
それにしても、「ふゆ」でタマを増やした後は、「はる」、つまり、タマがいっぱいになって、パンパンに膨らんでいる状態になり、そして、「あき」は、空く、つまり空っぽになるという意味だろうか。となれば、「なつ」はなんだろう。「なつ」「なつ」、これに似た言葉はないかと、考えていたが、なかなか思いつかない。そんな時、ふと、地元の方言で、「なす」という言葉を思い出した。
「なす」は返すという意味である。何かを借りて、まだ返していないと、「早くなしなさい」などと言うのだ。
「なつ」が「なす」から、きたのだとしたら、借りたものを返すということだ。夏は食べ物がたくさん採れる、つまり自然から人間へ贈られてくる、だから、そのお返しに、タマを贈り主に返すのだろうか。そうだったら、なんだかすごいな。

2015-08-07 | Posted in つれづれ, ブログNo Comments » 

 

茄子と南瓜と夕顔と

新潟の夏には、欠かせない、夏バテ対策郷土料理といえば、「くじら汁」。塩蔵した鯨の皮付き脂身と茄子を似た味噌汁だ。暑~い日に、油の浮いたあつあつのくじら汁を食べると、夏も乗り切れそう!って感じになる。こう書いている今も、まさに食べたくなる陽気。
先日、お稽古の時に、このくじら汁が話題になった。私とOさんは、くじら汁には、茄子だと思っていたが、Iさんのお宅では、夕顔なのだそうだ。
「夕顔って、普段食べる物ですか?」と私。
「もちろん。今の季節、お汁の実は、毎日夕顔ですよ」とのこと。
いやー、同じ新潟県でも、ところによって食材も変わるものだ。冬瓜に似た感じで、大きな実がなるのだそうだ。後でネットで調べたら、私が夕顔だと思っていたものは、夜顔だった。夕顔は、つる性で、大きな実がなっていた。
そうか、これで、前からの疑問が解けた。
「茄子と南瓜」という端唄がある。
「脊戸のなあ 段畑で 茄子と南瓜の 喧嘩がござる」という歌詞で始まる。
「南瓜もとより いたずらもので 長い手を出し 茄子の木に からみつく
そこで茄子めが 黒くなって 腹を立て そこへ 夕顔 仲裁に入り」
と続くのだ。私が夕顔だと思っていたものは、夜顔で、観賞用の花として、庭に植えられていた。なので、なぜ夕顔がわざわざ畑へ仲裁に行ったのかと、思っていたのだ。
夕顔が夏の野菜なんだから、当然、畑にあるわけだよね。
そして、唄の続きは、
「これさ 待て待て 待て待て 南瓜 色が黒いとて 背が低いとて
茄子の木は 地主だよ オラやそなたは 店借り身分
よその畑へ 入るのが 無理だやんで」
南瓜はつる性だから、どんどんとつるを伸ばして、畑に広がっていく。夕顔もつる性だから、きっと同じだ。広がって実をつけるところは、大家がいる土地で、店借りということか。面白いなあ。
昔は、トマトもピーマンも無いから、南瓜、茄子、夕顔が、夏野菜の王様だったのかな。どれも沢山実がなる野菜だ。今ではマイナーになった夕顔だが、昔はポピュラーな野菜だったに違いない。夕顔、美味しそうだ。今度、見つけたら食べてみよう。
Iさんは、野菜作りがとても上手だ。そしていろんなことを知っている。いつも勉強させていただき、ありがとうございます。

南瓜、梅の木の根元に進出中
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南瓜の海
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中には美味しそうな南瓜
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2015-08-01 | Posted in ブログ, 邦楽No Comments » 

 

コッパーを壊す

毎日暑い。庭には睡蓮が咲いている。
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北米北西海岸に住む先住民が行っていた「ポトラッチ」という贈り物の慣行がある。ポトラッチとは、大掛かりな規模で行われる「贈与の祭り」だ。今は大きく形が崩れてしまっているが、昔は盛大に行われていたそうだ。新しく首長に選ばれた人のお披露目や、重要な人物の子供の結婚の儀式にあわせて行われるお祭りで、村の首長が別の村の首長とそこの主要な住人を、大宴会に招待して、お客様にたくさんの贈り物をするのだそうだ。招かれた人たちは、別の機会にお返しをするために、自分たちが主催するポトラッチに前に招待してくれた村の人たちを呼んで、たくさんの贈り物をする。その贈り物の中でも最上級と考えられていたものは、銅でできた「コッパー」という板なのだそうだ。
ポトラッチの際に、しばしば、貴重品のコッパーが破壊され、招待客に破片が配られる。貴重なものにもかかわらず、この破片をもらった方は、海に投げ入れて、あともかえりみないのだという。海に沈んだ破片は、そのあと、拾いあげられて、改めてコッパーに作り直される。そうすると、前よりもコッパーの価値はぐんと増すという。(以上、カイエ・ソバージュⅢ 愛と経済のロゴス 中沢新一 著 より)
贈り物、というと、今回は誰だから、どのくらいの、というような計算が自ずから浮かぶわけなのだが、そんな考えはせずに、とにかく大量のものを贈る。更に、ものすごく価値もあるものを、惜しげもなく、壊してしまう。そして、そのことにまったく頓着しない。ケチケチしないことが、モノの価値を増殖させるということなのだと思う。

そんなことを考えていたら、落語の「文七元結」という話を思いだしてしまった。
腕はいいのに博打好きの左官の長兵衛は、仕事もせずに借金まみれ。大晦日に博打ですってんてん。そんなお父さんに立ち直ってほしくて、親には内緒で、娘が吉原に身を売ってしまう。吉原の女将は、来年の大晦日までは身の回りの世話をさせているが、大晦日までにお金を返せなかったら、女郎として店に出すといい、50両のお金を貸してくれる。
ところが、その帰り道に、店のお金50両をすられたので、責任をとって身投げするという、奉公人の文七に橋の上で出会ってしまう。必死にとめる長兵衛は、「娘は身を売ってくれた50両。これで命が助かるなら」と、懐にあった50両を押し付けて、逃げ帰ってしまう。文七がお店に帰ると、すられたと思った50両は、忘れてきただけで、すでにお店に届いていた。そこで事の顛末を話す。翌日、お店の主人が長兵衛の元を訪れ、50両を返し、おまけに娘の身請けをしてくれていて、家まで連れてきてくれる。後に、文七と娘は夫婦となり、暖簾分けをしてもらって店をひらくという、めでたしめでたしの人情噺である。
この話には、一番大事なものを、惜しげもなく、こわすというシーンが出てくる。
娘は、借金を返済して、父に改心して欲しくて、自分の大事な娘ざかりの人生を、吉原に売ってしまう。ここでまずコッパーが壊される。それに対し、吉原の女将が、一年間は女郎勤めはさせないと約束し、大金を貸してくれる。コッパーを壊したことで良いことがおこる。
その帰り道に、身投げをしようとしている若い奉公人に会う。命が助かるならと、娘が身を売った大事な大事なお金を、なんの見返りも求めず、名も名乗らず、渡してしまう。
ここでも大きなコッパーが壊される。
そして、その後は、お金は戻る、娘は戻る。娘は幸せになる、家は栄える。とハッピーエンドで終わる。
これはまさに、コッパーを壊すと、価値が増殖する話なのではないか。

旧石器時代の人類から続く、アメリカインディアンやアイヌなどのモンゴロイドに残る神話的思考が、江戸時代にも鮮やかに花開いている。そんな気がしたのだった。
ものすごく大事なものを、手から離すと価値が増殖する。このことは、モノを大事にするなと、言っている訳ではもちろんない。コッパーを壊すことで、より大きな力を生むという、そのことを、この人情話は、よく表現しているのではないか。
大切なものを、物惜しみしないことで、より大きな価値を生む。
この時に気をつけなければいけないのは、なんのために物惜しみをしないのかということであり、より大きな価値とは何かを、自分で考えることである。ここを間違えれば、大変なことになる。
コッパーを正しく壊すことは、積極的正しい価値増殖主義である。

2015-07-30 | Posted in ブログ, 江戸No Comments » 

 

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