雑草A



新潟ではよく草取りをする。今の季節は、一雨毎に、まるで雨がご馳走でもあるかのように、ぐんぐんと草が芽生えて、伸びてくる。
「うわ、ドクダミの花が咲いて、こんなに背が高くなっている」
「これからは、スベリヒユが出てくるんだよね」
「おっと、これは松葉ボタンの芽だから、とらないように」
などと、名前を知っている草は、それぞれ、名前を呼び、確認しながら取っていた。
知らない草は、
「この地面を這いつくばって伸びるヤツ」とか、「ふさふさで穂がでるヤツ」とか思いながら、取っていた。
ところが、先日、雑草の本を読んだ。
庭の片隅や、都会の隙間には、驚くほどたくさんの雑草が生えている。一つ一つは、見たことのあるものもあり、当たり前だが、それぞれに名前がある。
「あ、これはこんな名前だったんだ」
「これ、よく見るなあ、そういえば」
改めて周りを見ると、今まで「雑草A」だった草が、「コニシキソウ」だの「メヒシバ」だのと、名前と共に見えてくる。
小学校の通学路に生えていたたくさんの草たち。遊び仲間であり、景色の一部であった草たちは、みんな名前があったんだ。
もう一つ、自分で驚いたことがあった。
東京はほとんど土が無いといっても、歩道の片隅や、空き地に、いろんな雑草が生えている。それは知ってはいたが、東京にいる時は、「ああ、草」としか思っていなかった自分に気がついた。
これは、東京の雑草に対する潜在的な差別ではないか。
畑や庭でふさふさと育っている草と、幹線道路の歩道の隙間に、こっそり育っている草と、基本的には同じなのに。東京の草たち、ごめんなさい。
この本を読み終わった後、「雑草A」は、かなりなくなり、それぞれが、名前で見えてくるようになった。同じ場所に一緒に生きているものたち、と感じる。名前を知っただけで、こんなにも違うものなのか。
もし、駅名が、A駅、B駅とかだったら、ただの記号みたいで何とも思わないだろう。
「阿佐ヶ谷」とか「新津」とかいうから、親しく感じるし、空想もわいてくる。
名前は、楽しい。
先日は、梅雨空の下、青いツユクサを見た。きれいな青だった。
「雑草A」は、名前のある草に沢山昇格した。
でも、ごめん。やっぱり抜きますけど。

2018-06-30 | Posted in ブログ, 自然Comments Closed 

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