道連れ

小学校の時の工作に時間に作ったものが、本棚にまだ飾ってある。
私が作った、お魚キャラである。

児童文学のお話の始まりは、親から離れて一人で出かけることになるとか、病気になる、とか、いつもの安心して暮らせる家族のそばから、離れることが多いのだと読んだことがある。一人でいなければいけない、一人で行動しなければいけなくなった時の、自分の道連れは、自分、である。
子供は、遊びが仕事のように、いつでも友だちと遊んでいるように思ってしまうが、意外に一人のような気がする。
父は仕事、母は畑か家事、弟はどこかで遊んでいる、なんていう状況はよくあった。
話し相手は自分、そして、たっぷり溢れているまわりの動物、植物、空、雲、風、などなど。
地面を見つめては、ずーっと下の、奥の何かに思いを馳せたり、空や山を見ては、ずーっと先のその先の何かに、声をかけたり。いつも道連れは自分だ。
やらなければならないことは、そんなにないけれども、子供は結構忙しい。
大人になるにつれ、やらなければならないことが増え、それを片付けるのに忙しくなる。
大事な道連れであった自分、のことは、いつしか遊ばなくなったおもちゃのように、どこかへしまってしまい、忘れてしまう。
社会人になってから、やりたい音楽が見つからず、山登りに明け暮れていた時期があった。
山へ行くと、歩いている時は、当たり前だが、他にやることがない。周りには、木や花や鳥、稜線に上がれば、空や雲、大好きなものが沢山あった。
そして、その時の道連れは、自分、だったんだなと思う。だから、山へ行きたくなったんだな、と。
三味線を初めてからは、山へ行っていない。もはや、重いザックを担いで3000m級の山へ登るということも、たぶん無理と思うが、登っている時、山頂で休んでいる時の空気は、忘れていない。
夕日、そして朝日が、やはり好きだった。土砂降りや雪などの荒天も、それはそれで、楽しい。そういう時は、自分という道連れと、すごいね!と言いながら結構楽しく山を歩いていたような気がする。
たっぷり子供時代を楽しむというのは、たっぷり自分と遊ぶことかもしれない。

2016-01-30 | Posted in こども, ブログNo Comments » 

関連記事

Comment





Comment



CAPTCHA