縁かいな

「縁かいな」という端唄がある。「夏の涼みは両国の」で始まる夏の唄。これからの季節にぴったりである。どういう唄かというと。
「夏の涼みは 両国の 出船入船 屋形船 上がる流星 星くだり 玉屋が とりもつ 縁かいな」
この唄はもちろん恋の唄である。
冷房の無かった江戸時代は、夏の涼みといえば、両国へ行って、川端か両国橋の上で、お金があれば船に乗って、涼むのである。
この唄に関する私の妄想はこうだ。
今でいう隅田川の花火大会、江戸時代では両国の川開きの日に、「ちょっと涼みがてら見に行こうよ」と、以前から思いを寄せている人を誘う。二人は両国橋の上で、行き交う船を見ながら涼んでいる。いよいよ上がる花火。(流星、星下りは花火の名前)「玉屋~!」「鍵屋~!」と叫んで楽しい夜を過ごす。その日がきっかけで、二人は結ばれる。こんな唄かなと。
この時の二人は、並んで同じモノを見ている。川面を行き交う船、そして上空の花火。いつでも二人は並んでいる。面と向かって、「君は僕の月だ太陽だ」と告白するのではない。もしかしたら、「来年も再来年も、ずっと一緒に花火が見たいなあ」程度のことしか言わなかったかもしれない。この光景は、映画「東京物語」を彷彿とさせる。あの映画を見たとき、老夫婦の並んで話す姿がとても印象的だった。二人は目をあわせない。けれども、二人の会話は寄り添っている。
北山修さんの書いた「共視論」を読んだときに、なるほどと思った。日本人は、見つめ合うのではなく、同じものを見て、心を通わせるのだそうだ。
「あの時同じ花を見て 美しいと言った二人の 心と心が 今はもう通わない」という歌詞があったっけ。
浮世絵の親子や恋人同士も、見つめ合うのではなく、同じものを見ているのだそうだ。
幕末から明治に日本を訪れた外国人の多くが、日本の子供たちは、ちょっと大きくなると、小さい子をおんぶしている、そして、おんぶしたまま、皆で遊んでいる、と書いている
おんぶされているということは、まだ一緒に遊べないけど、みんなと同じものを見ているということ。昔は、子供たちは、よくお母さんにおんぶされていた。おんぶされているということは、お母さんと同じ高さの視点で同じものを見ているということだ。ベビーカーで見ているのとは随分違うかもしれない。
「縁かいな」が恋の唄というのは、最後の「玉屋がとりもつ 縁かいな」の言葉で、恋の唄とわかる。それまでは、夏の描写というか、スケッチのような言葉が続く。でもこれが、最後に恋の唄とわかると、スケッチがスーっと一冊のアルバムのようにまとまっていく。こういう唄が好きだ。

2015-06-24 | Posted in ブログ, 邦楽文化No Comments » 

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