眉根を寄せて
部屋で稽古をしていた時だ。
「あらあ、そんなに眉根を寄せて」と母に言われた。
「ええ?うそお」
自分ではそんな顔をしているつもりは、まったくないのだが、母がそういうのだからそうなのだろう。「いやだなあ」。洗面所へ行って鏡を見る。
さっきは、新しい曲を覚えようとして、何度も唄っていたところだ。
「こんな感じだったかな」
鏡を見るとたしかに眉根を寄せている。
いかんいかん、こんな人相の悪い顔では、楽しそうではないではないか。
気をつけなくっちゃ。
意識して、眉根に力を入れないようにすると、すなわち、顔の力が抜けてくる。
ほっとすると同時に、なんでさっきはあんなに、思いつめたようにギュッとなっていたのかと思う。ものの見え方、感じ方も変わってくる。心がほんわり楽しくなってくる。
そういえば、ネパールの寺院だったかに、額の真ん中にもう一つ目が書いてある絵があった。「心眼」というのだったかな。眉根をよせる力を抜くと、なんだか新しい目が開いたような気がするのは、この3つ目の目が開くのかなと思った。眉根を寄せると心眼が閉じ、見えていたものが見えなくなるのかもしれない。
楽しいもの、ほっとするものが見えなくなり、なにやらギュッとした感じだけになってしまう。
「心眼」を閉じさせるには、眉根を寄せさせれば良い、となれば、それはそんなに難しいことではないだろう。
不愉快にさせる、不安にさせる、そのような思いをさせれば、人は眉根を寄せてしまう。そして、その人の心眼は閉じてしまうのだ。しかも無意識に眉根を寄せるものだから、本人は、心眼を閉じてしまったなどという自覚はないのだ。
これは、歴史を振り返れば、権力側が一般人に向かってやってきたことなのではないだろうか。嫌な気持ちにさせ、脅して不安にすれば、心の目は閉じてしまうのだ。
幕末に江戸を訪れた外国人は、皆一様に、日本の人々は、みんな上機嫌だったと書いている。上機嫌でいることは、心眼を閉じないための、自衛策かもしれない。
にこにこしながら、「集団的自衛権は必要ですよね」、とか、「場合によっては戦争に行くのもしかたありませんね」などと言う訳はないだろう。
上機嫌、それは庶民の知恵だ。脅され、不安に陥れようという権力側の力に対しては、眉根をよせずに心眼を開いて、よくよく見なければいけない。そのためにも上機嫌だ。
母に指摘され、顔の緊張に気づいて反省し、またお稽古に戻った。
あれれ、心なしか、声がさっきより楽に出るぞ。心眼が開いて、喉も開いたかな。