木の名前
江戸時代の人は、木の名前を50種類位は、さっと言えたそうだ。そう言われて、そんなの簡単だよ、と思った。私は農村育ちだし、山登りもしているので、結構木の名前は覚えているつもりだ。
まずはオーソドックスなところから、松、桜、梅、桃、、、あれ、15位で、一端止まる。そうだ、庭にある木を順番に、楓、躑躅、椿、山茶花、木蓮、、、、ちょい小休止。そうだ、子供の頃庭にあった木は、栗、胡桃、すもも、無花果、、、。うーーん、後8個。山でみた木は、クヌギ、ナラ、ダケカンバ、、、。ようやく50だ。結構、大変だった。
そのあと、買い物に出た。見渡してみる。銀杏、躑躅、紫陽花、桜、梅、、、あれ。あんまりないなあ。あ、駅前に百日紅。しかし、少ない。
身の回りに無いと、名前も出てこない。「木」をイメージした時、浮かんでくる形が少ない。虫や鳥、花もそうだろうな。
知らないということは、無いということだ。浮かんでくる姿が、少ないということだ。
「無い」といっても、存在はしているのだが、自分の中には、「無い」。
「知らない」と「無い」を混同してしまうことって無いだろうか。
「知らない」と思えば、「知りたい」と思うが、「無い」と思えば、そこで終わり。自分は、すべてを「知っている」と思ってしまう。
「木」は、自分で見て触らなくても、テレビや本でも見ることはある。でも「木」の名前を思い出そうとした時、出てきたのは、自分の目で見て、触ったことのある木だけだった。
「知っている」というのは、身体感覚とセットなのかなあ。
身体感覚で「知っている」という数が、彩になるんだろう。
雨はどうだろう。
バシャバシャ、シトシト、ポツポツ、、、どれだけ言えるかな。
何かの数をどれだけ言えるか、考えてみるゲーム。
ちょっと続けてみようかな。
(写真は、新潟の友人が撮影した「牧の衛守杉」。とっても大きな木で、始めて出会った時は、心の底が震えるような感動があった。「木」、なんだけど、地域を守ってくれている「偉大な人」という感じがする。)