うさぎの谷
私は地名が好きだ。地名を見ていると、いろんなお話が湧いてくる。どんなところだったんだろう。どんなことがあったんだろう。妄想は尽きない。
私の母の実家の方は、里山に縄文時代の遺跡もあり、昔から人が住んでいたところらしい。麓のあたりまでは海だった。程島、東島、西島などという地名がそれを物語っている。その間に、中村という地名がある。なぜ、ここは島がつかないのかと思っていたら、ここら辺は中洲だったと、昔話にあった。なるほど。
母の家のあたりは、山が近いので、谷がつく地名が多くある。塩谷、欅谷、椿谷、兎谷、みんなそれぞれに美しく、想像をかきたてる。
中でも兎谷は、ぴょうぴょんと兎が遊んでいるようで、なんともかわいい。
しかし、その兎谷は、もう谷ではない。
高速道路を作る時だったと思うが、そのあたりの山が全部崩され、道路の盛土に使われてしまったのだ。兎谷を抜ける道を以前通った時は、だだっぴろい赤土色の地面が広がっていて、周りには、削り取られた赤土色の断面がむき出しになった、山とはもはや言えないような、土の塊がわずかにあるばかりだった。
「このあたりは雑木林で、紅葉が真っ赤で、本当にきれいだったんだよ。毎年見るのが楽しみだったんだよ」と母は言っていた。今の姿を見るのが悲しくて、この道は通りたくないと言っていた。
私もなんだか見るに忍びなく、しばらく通っていなかった。
先日、たまたま通りかかった。土色の地面は無く、一面草で覆われていた。自然の回復力はすごい。もしかしたら兎はいるのかもしれない。
けれど、山は二度ともどらない。兎は戻っても、山は戻らないのだ。
高速道路は確かに便利だが、あの土はどこかから持ってくるしかないものだ。それは、山を崩して持ってきていたのだ。日本全国に広がる数多くの道路、その量だけ、山は削られている。
きっと数多くの、山と谷が消え、地名だけになっていることだろう。
今では原となった兎谷。月夜の晩は、兎が皆で踊るだろうか。